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'''山田 有信'''(やまだ ありのぶ、[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]]) - [[慶長]]14年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1609年]][[7月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[武将]]。[[薩摩国|薩摩]]の大名[[島津氏]]の家臣。[[山田有徳]]の子。子に[[山田有栄]]、[[山田有貞]]。新介(新助)。越前守。民部少輔。理安。 ==経歴== 薩摩の[[山田氏]]は元々は[[平氏]]とされ、薩摩国日置郡山田の地を領し山田氏を名乗った。 有信は、はじめ[[島津貴久]]、次いで[[島津義久]]に仕えた。[[1568年]]には島津氏の[[家老]]となった。 武勇に優れた勇将で、[[1578年]]に[[大友義鎮|大友宗麟]]が大軍を率いて南下してきたとき、わずか500の兵で[[日向国|日向]][[高城 (新納院)|高城]]に籠城し、大友軍を大いに苦しめた。これが島津軍の[[耳川の戦い]]での大勝利につながったとまでいわれている。 [[1586年]]、[[豊臣秀吉]]による[[九州征伐]]が始まったときはまたも高城にわずかな兵と籠城して豊臣軍を大いに苦しめた。島津軍本隊が豊臣軍に敗れても、有信は義久への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけたが、義久が説得したため、子の有栄を人質に差し出してようやく降伏した。 1609年、死去。死後、主君の義久は有信の棺の前で自ら焼香し、その死を惜しんだといわれている。 {{DEFAULTSORT:やまた ありのふ}} [[Category:戦国武将]] [[Category:1544年生]] [[Category:1609年没]]
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