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{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller" |- ! 姓名 | 伏完 |- ! 時代 | [[後漢]]時代 |- ! 生没年 | 生年不詳 - [[209年]]([[建安 (漢)|建安]]14年) |- ! 字・別号 | 〔不詳〕 |- ! 本貫・出身地等 | [[徐州]]琅邪郡東武県([[山東省]][[諸城市]]) |- ! 職官 | [[侍中]]〔[[後漢]]〕→[[執金吾]]〔後漢〕</br> →輔国将軍〔後漢〕→中散大夫〔後漢〕</br> →屯騎[[校尉]]〔後漢〕 |- ! 爵位・号等 | 不其侯〔後漢〕→[[列侯]]〔後漢〕 |- ! 陣営・所属等 | [[献帝]] |- ! 家族・一族 | 父:伏質 舅:[[桓帝 (漢)|桓帝]] 妻:劉華(陽安公主)</br> 子:伏徳 伏典 伏寿(献帝皇后)</br> 娘婿:[[献帝 (漢)|献帝]](劉協) |} '''伏 完'''(ふく かん、? - [[209年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の人物。後漢最後の皇帝[[献帝 (漢)|献帝]]の[[皇后]][[伏寿]](伏皇后)の父。不其侯・[[侍中]]。父は伏質([[大司農]])。妻は[[劉華]]([[桓帝 (漢)|桓帝]]の娘の陽安公主)。子は[[伏徳]]・[[伏典]]。 [[済南]]の[[伏生]]・伏勝の子孫。[[伏勝]]の八世[[伏理]]([[太傅]])、伏理の子[[伏湛]](大[[司徒]]・陽都侯)、[[伏湛]]の四世[[伏晨]]の曾孫。[[伏無忌]]の孫(侍中・屯騎校尉)にあたるという名門の出であり、皇帝の娘婿として名声が高く、[[荀イク|荀彧]]と親しい仲にあったと言われている。 [[196年]]、献帝は[[洛陽]]で宮廷を営むと、伏完を輔国将軍・[[儀同三司]]とした。しかし伏完は曹操が、自分が[[外戚]]の地位にいる事を疎んじているのを見て、[[印綬]]を返上した。その上で中散大夫に任命され、やがて屯騎校尉に職を移した。 [[200年]]、[[董承]]らが[[曹操]]暗殺のクーデター未遂事件を起こすと、曹操は献帝の子を妊娠している董承の娘の董貴人さえも処刑した。これに伏皇后は戦慄し、父に曹操は残忍ゆえに排除すべきだという手紙を送った。しかし、伏完は曹操排斥の動きをとらないまま[[209年]]に死去し、子の伏典が後を継いだ。 [[214年]]、伏皇后が「曹操の排除」を唱えていたことが明るみになると、曹操は伏皇后を「廃后」に処し、幽閉した。また伏氏の[[宗族]]を処刑した。さらに母方であった陽安公主の一族は、[[幽州]]に追放された。これにより[[献穆曹皇后|曹節]]が皇后に立てられた。外戚の伏氏は排除され、代わりに曹氏が漢王朝の外戚となった。 ==『三国志演義』の描写== 小説『[[三国志演義]]』では、献帝が曹操に対してクーデターを起こして失敗した時、処刑された董承の恨みを晴らそうと、伏皇后と共謀して曹操打倒の策を練る。この時、皇后は父に対して書状をやり取りし連絡をとるが、その書状が曹操の手に渡ってしまう。このため、曹操の手によって伏完と伏皇后、そして一族は謀反を企んだとして全て処刑されている。また、伏皇后処刑後に曹節が皇后として輿入れし、曹操による専横がさらに強くなった事にされている。 {{DEFAULTSORT:ふく かん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:濰坊出身の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:209年没]]
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