両國勇治郎のソースを表示
←
両國勇治郎
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[File:Ryogoku Yujiro-Kajinosuke.jpg|thumb|right|300px]] '''両國 勇治郎'''(りょうごく ゆうじろう、[[1892年]][[3月18日]] - [[1960年]][[8月10日]])は、[[大相撲]]の[[力士]]。[[出羽海部屋]]所属。最高位は[[関脇]]。[[秋田県]][[大仙市]]出身。本名は西村(後に伊藤)勇治郎。現役時代の体格は173cm、90kg。得意手は左四つ、[[櫓投げ]]、[[小手投げ]]、[[内掛け]]、[[掛け投げ]]。[[幕内]]で勇治郎の[[四股名]]を名乗ったのは1場所だけであり、その後はずっと梶之助と名乗った。 == 来歴 == [[両国国技館#旧両国国技館|両国国技館]]が開館した[[1909年]]6月場所に[[初土俵]]を踏んだ。 [[1914年]]5月場所に新入幕を果たすと、その場所で9勝1休の好成績で幕内最高優勝を果たした。1休はこの日の相手[[寒玉子爲治郎|寒玉子]]の休場(当時は片方休めば相手も休み扱い)によるものであり、現在なら[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]である。ただし、この休場は、優勝を争っていた[[横綱]][[太刀山峯右エ門|太刀山]]が、出羽海部屋の力士が休場したために休み扱いになったので、それとバランスをとるために、寒玉子を休場させたものである。当時はこういう状況を「土つかず」と表現した。 なお新入幕力士の無敗は両國と[[1917年]]5月場所の[[大潮又吉|大潮]]、[[1945年]]11月場所の[[千代の山雅信|千代ノ山]](これは本当の全勝だった)の3人だけである。 [[1915年]]1月場所より四股名の下を梶之助と改める。この場所は7勝2敗1分の成績を挙げて、で翌場所は関脇に昇進、その後も平幕上位から[[三役]]で活躍した。[[優勝旗手]]も2回務めた。[[1924年]]1月場所限りで引退。美男でも知られ、作家の[[田村俊子]]も彼にほれ込み「両國という角力恋して春残し」「両國を思えばうつらうつらかな」という句を詠んだ。 引退後は[[年寄]][[武隈 (相撲)|武隈]]を襲名し、横綱に昇進した[[武藏山武|武藏山]]をスカウトしたが、出羽海と確執が生じ[[武隈部屋]]を興し[[一門_(相撲)#立浪一門|立浪一門]]に移籍した。そのため、力士たちは出羽海部屋の力士と対戦するという、[[系統別総当たり制]]の時代には珍しい状況になった。[[十両]]に昇進した[[郷錦広治|郷錦]]は、[[プロ野球]][[東京讀賣巨人軍]]に在籍していた[[原田治明]]の父親である。しかし、幕内力士を育てることはできなかった。 == 主な成績 == *通算成績:105勝74敗3分3預34休 勝率.587 *幕内成績:92勝72敗2分1預34休 勝率.561 *現役在位:24場所 *幕内在位:20場所 *三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所) *各段優勝 **幕内最高優勝:1回 (1914年5月場所) **十両優勝:1回(1914年1月場所) *優勝旗手:2回 == 関連項目 == *[[秋田県出身の人物一覧]] *[[関脇一覧]] {{DEFAULTSORT:りようこく ゆうしろう}} [[Category:秋田県出身の大相撲力士]] [[Category:出羽海部屋]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:日本相撲協会の役員]] [[Category:1892年生]] [[Category:1960年没]]
両國勇治郎
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報