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BOOWY

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BOØWY(ボウイ)は、日本のロックバンド。1980年代に活躍。1981年結成、1987年解散。

メディアなどで稀に「BO"Φ"WY」などと誤記されることがある[1][2][3]が、正しいグループ名は、3文字目がギリシャ文字の「Φ」(ファイ)ではなく「Ø」(ストローク符号を付したO)である。

概要

1981年、群馬県高崎市出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に結成される。初ライブ後に高橋まことが加入し、1982年にデビュー。当初は6人編成だったが同年秋に2人が脱退し、以降は解散まで4人編成で活動する。

[[8ビート|テンプレート:音声ルビビート]]を基調としポップでありつつもシャープでエッジの効いた縦ノリのロックサウンドや、ジャン=ポール・ゴルチエをステージ衣装に使用したり、今日のロックシーンでは当たり前となった逆立てたヘアースタイルなどの斬新なビジュアル等が多くの支持を集め、アルバム『テンプレート:Lang』とアルバム『テンプレート:Lang』は当時のロックバンドのアルバムとしては異例のミリオンセラーを記録した。シングルでも1987年に「[[Marionette (BOOWYの曲)|テンプレート:Lang]]」が初登場1位を記録し、名実共にトップバンドへとのし上がった。

しかし絶頂の最中にあった1987年12月24日に解散を宣言。この突然の出来事は大きな衝撃を与えた。翌年1988年4月4日、5日に東京ドームで行った『テンプレート:Lang』にてバンド活動に終止符を打つ。このライブのチケットは僅か10分で完売、文京区の電話回線がパンクするという事態も起こり、これら一連の流れからテンプレート:音声ルビの人気は社会現象にまで発展した。翌月にリリースされた『テンプレート:Lang』はライブアルバムとしては異例とも言える150万枚のセールスを記録している。また、フォトグラファー加藤正憲によって撮影された『[[“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986|テンプレート:Lang 1986]]』のジャケット写真はテンプレート:音声ルビを象徴する一枚として有名。

その音楽性、「誰にも似ない」「何処にも属さない」というバンドスタイル、メディアをほとんど利用しない強気な姿勢、斬新なビジュアル、絶頂期での解散、後に起こるバンドブームの火付け役となり全国に数多くのロックキッズを産むなど、テンプレート:音声ルビが及ぼした影響は絶大である。解散後もベスト・アルバムや未発表音源がリリースされた際には常にチャートの上位にランクインしており、今日もなお日本のロックシーンに変革をもたらしたバンドとしてその地位を確固たるものとしている。

音楽雑誌等ではしばしば「テンプレート:音声ルビ以前」「テンプレート:音声ルビ以後」と表記され、フォロワーと呼ばれるバンドやミュージシャンも数多く登場している。

メンバー

解散時

途中脱退

テンプレート:音声ルビ
ドラム、1981年5月脱退
氷室がテンプレート:音声ルビ結成以前に加入していたスピニッヂ・パワーのドラマー。プロデューサー志望であった為、高橋が加入するまでのサポートメンバーだった。
脱退後の1983年にアルバム『テンプレート:Lang』のプロデュースを担当。現在も音楽プロデューサーとして活動する傍ら、2012年末から「テンプレート:Lang」名義でミュージシャンとしても活動を始めている[4]。
テンプレート:音声ルビ
サックス、1982年10月9日脱退
群馬時代、布袋が結成した「ジギーリギー」でサックスを担当。テンプレート:音声ルビ結成時はベーシストだったが、松井の加入によりサックスへ転向した[5]。
現在は「東京パワーゲート」という劇団で舞台役者として活動中。[6]
テンプレート:音声ルビ
ギター、1982年10月9日脱退
群馬時代は氷室、松井と共に「デスペナルティ」でギターを担当。テンプレート:音声ルビ結成時、松井とはアパートの隣室同士だった[5]。
テンプレート:音声ルビ脱退から1年後に音楽業界を引退。

略歴

1980年

1981年

  • サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、その当時「テンプレート:仮リンク」というイギリスのハードロックバンド(メンバーは全員男性)がいたことに対抗し、こちらは男ばかりだからそのまま「ボーイ」だろうということで、当て字で『暴威』と命名された。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蠅』にあやかって『群馬暴威』という名を提案されたものの、メンバーから猛反対され即ボツになった。
  • 5月 最初のアルバム『テンプレート:Lang』レコーディング開始。
  • 5月11日 新宿ロフトでデビューライブ「暴威テンプレート:Lang」を行う。ちなみに、このギグのオーディエンスは13人(男性9人、女性4人)」だったということで、その中には高橋まこともいた。後日、高橋がオーディションの上加入し、木村が脱退。

1982年

1983年

1984年

  • 3月30日・31日 新宿テンプレート:Langでテンプレート:Langライブを敢行(「テンプレート:Lang 〜すべてはけじめをつけてから〜」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。
  • 5月31日 拠点を渋谷 テンプレート:Lang へ移し「テンプレート:Lang」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。
  • 10月7日 ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。同時にライヴの半年間休止も発表された。
  • 12月6日 氷室、「狂介」から「京介」に改名。

1985年

1986年

1987年

1988年

逸話

結成

  • 氷室はテンプレート:音声ルビ結成以前、レコード会社の意向によりスピニッヂ・パワーのボーカルとしてデビューしたが、音楽性の違いから脱退。当時付き合っていた彼女とも別れてしまい、ついには音楽の道を諦め帰郷する決意をする。しかし最後のつもりで立ち寄った日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て一念発起。群馬時代のライバルだった布袋のもとへ連絡を入れ、六本木アマンドの前で再会する。この時布袋は、群馬時代は硬派な印象だった氷室の風貌がニューウェイブ風に変化しており、驚いたという。
  • 同郷のライバル同士ではあったが当時2人の間にそれほど面識はなかった為、布袋は氷室からの連絡を受けた際に「(群馬から東京に出てきて、高等遊民のような生活をしていることを聞いた氷室から呼び出されて)殴られるんじゃないか」と思ったという。また当時を振り返り、地元で有名な不良少年の氷室が怖くて誘いを断りきれなかったとよくネタにしている。
    • しかし実際には、氷室と松井が布袋の自宅に遊びに行ったり、病気療養中の布袋の見舞いに行ったりする程度の交流はあったようである。[5]
  • 松井は[[織田哲郎&9th IMAGE|織田哲郎&テンプレート:Lang]]のベーシストとして既にデビューしていたが、旧友である氷室が新しいバンドを結成しようとしていることを知り、ミュージシャンとしての安定した道を蹴って氷室と布袋に合流している。
  • 高橋は前述の通り初ライブを観賞しており、終演後は楽屋にも訪れている。その時のことを「怖そうな氷室、デカい布袋、寡黙な松井。とにかくおっかない連中だなという印象だった」と懐述している。[8]
  • 布袋いわく氷室は高校時代、極道のイメージが強くて帝王のような存在として広く知られていたが、歌は上手く歌唱力はプロ級だったと語っている。[9]

メディアへの露出

  • テレビ番組への出演は少なかったが、デビューして間もない頃にドラマ「太陽にほえろ!」(日本テレビ)に出演している(第524話「ラガーのラブレター」。ただしこの回は権利関係のためか、現在では欠番扱いとなっており再放送されることは希。過去にDVD・VHS化されたこともなく、現状見る事は極めて困難な状態となっている。2013年2月に日テレプラスで再放送されたのみ。)その後も音楽番組としては『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)、『いきなり!フライデーナイト』(フジテレビ)、『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ)、名古屋のローカル番組『[[5時SATマガジン|5時テンプレート:Langマガジン]]』(中京テレビ)などに数回出演している。
  • 『5時SATマガジン』では”ロックスターボウリング大会”という企画に出演している。
  • 日本テレビの番組『メリー・クリスマス・ショー』で吉川晃司とビートルズの「ヘルプ!」をカバー。その他ではオープニングの「カム・トゥゲザー(同じくビートルズの曲)」、出演者のほとんどが参加したロッケストラ名義で「夜をぶっとばせ(ローリング・ストーンズの曲)」、「テレグラム・サム(テンプレート:Langの曲)」、エンディングの「[[Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)|テンプレート:Lang (クリスマスだからじゃない)]]」にも参加している。
  • 『夜のヒットスタジオ』の「対面シリーズ」では、氷室の初恋の女性が登場して氷室が「さすがフジテレビだぜい!」としゃべるというシーンが見られる。しかし本当にこの女性が来るとは思っていなかった為、収録後にメンバー全員が出演したことを後悔したという。[8]
  • 同番組に「[[ONLY YOU (BOOWYの曲)|テンプレート:Lang]]」で出演した際には、司会の古舘伊知郎から「(氷室の衣装が)銀座の買い物帰りのおばさんみたい」と言われ、布袋に対しては殿さまキングスの物真似を強要させられ[注釈 1]、また高橋は自前のドラムセットを使えなかったこと[8]等が原因か、テレビ出演は1986年12月を最後に途絶えている。
  • 『いきなり!フライデーナイト』ではメンバーが酔っ払ったまま出演している。
  • バラエティ番組である『いきなり!フライデーナイト』にしばしば出演したのは、司会の山田邦子がライブハウス時代からのテンプレート:音声ルビファンであり、氷室によれば山田が「楽曲をよく理解してくれていたから」だという。氷室が「俺のオヤジ、邦子ちゃんの大ファンなんです」とカミングアウトすることもあった。
  • 音楽雑誌に掲載された記事も少ない。「テンプレート:Lang」がヒットした直後からインタビュー等のオファーが殺到するが、それらのほとんどを拒否している。数少ないインタビュー記事は、ブレイクする以前から懇意にしていたライターや、自分たちの音楽をよく理解してくれていたライターの雑誌に限定されていた。
    • このような対応の裏には、まだライブハウスで活動していた時期に、熱意剥き出しで挑んだインタビューがほんの僅かしか掲載されていなかったり、懸命にスタイリングして撮影したはずの写真が掲載されていなかった等の経験からメディアへの不信感を抱いたことが影響している。
    • またこの姿勢はマネージメントスタッフも同様であり、テンプレート:音声ルビを本当に聴きたいオーディエンスの席が減ってしまうという理由から、ライブは基本的にメディア用の招待席が用意されていなかった。その為、著名な音楽評論家が関係者入口で門前払いにされたり、レコード会社の重役がファンに揉みくちゃにされながらライブを観るといった珍事が続発したという[10]。

メンバーの経歴

  • 氷室の芸名の由来は、漫画「ワル」の主人公から。初期は「狂介」という芸名だったが、京都の占い師に「『狂』という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の「京介」に改名した[11]。改名後売れたため、以後もう占いをしないと決めたらしい。
  • 松井の『恒松』の芸名は、本名の「恒」を活かしてフリクションの『恒松正敏』をヒントにしたもの[12]。
  • 高橋は読み方は同じだが、本名は『信』という漢字表記のため、厳密には芸名になる(1985年頃までは「テンプレート:Lang」の作詞者クレジットにもあるように、漢字の方の名前を名乗っていたこともあった)。
  • 布袋はメンバー4人の中で唯一本名をそのまま使用している。
  • 高橋加入後の[[新宿LOFT|新宿テンプレート:Lang]]でのライブの際、タイムテーブルの遅れにしびれを切らした氷室が店長と諍いを起こしてしまう。しかしこの時の店長が偶然にも高橋の旧友だった為、後のライブブッキングや打ち上げの面で有利に働くこととなった[8]。
  • 氷室はバンドを結成した当初は、英会話教材のセールスマンをしていた事もあり、営業成績も優秀だったという。しかし車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋では台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目には先輩を見切り一日中ゲームをして遊んでいたというエピソードもある。
  • 氷室と布袋はなかなか定まった仕事に就かず、女性のヒモ同然の暮らしをしつつ、バンドの活動資金は主に松井と高橋のアルバイト代や、ファンから多めに徴収した打ち上げ代などで補っていたそうである。
  • 布袋は喫茶店のアルバイトの面接に行った際「背が高すぎる」という理由で不採用になったことがある[10]。他には、居酒屋でチューハイを一杯だけオーダーして別のテーブルの残飯を食べたり、夜中に酒屋の脇に積んであるビンを失敬し翌日何食わぬ顔でそれを売りに行って小銭を稼ぐなどしていた。1983年頃からスタジオ・ミュージシャンとしての仕事が少しずつ入ってくるようになり、この時の経験が『テンプレート:Lang』をはじめテンプレート:音声ルビのスタジオワークに大いに役立っている。
  • 松井は六本木のスクエアビル内にあったゲームセンターで働いていた際、店長に「髪立ててメイクしてバイトに来るのやめてくれない?」と言われたことがある[5]。後に阿佐ヶ谷の「ミント」というカフェバーのマスターとなったが、店がバンドの連絡先も兼ねていたため、熱心なファンが通いつめ、売上が上がらず閉店してしまった。
  • 高橋はマネキン運びのアルバイトをしており、正社員への推薦を貰うほど勤務態度も優秀だったという。また地方へ遠征する際は、他メンバーに内緒でヘソクリを持っていた。内緒にしておかないと「酒を飲もう」「飯を食おう」と言われることになるからと、後のインタビューで語っていた。金額はとりあえず車で東京まで帰って来られる額だったという。

その他

  • 群馬時代に布袋が組んでいたバンド「テンプレート:Lang」のボーカリストは、後にテンプレート:音声ルビのマネージャーとなった土屋浩である。「紺待人」のペンネームで書籍「大きなビートの木の下で(1986年 ソニー出版)」などバンド関連の書籍等も手掛けた。テンプレート:音声ルビ解散後は氷室、高橋と共にユイ音楽工房に残留し、近年では高橋が所属するアースルーフファクトリーの代表を務めていたが、2012年5月に他界[13]。
  • ライヴハウス時代、佐賀県で3万人規模のコンサートがあるという話を聞き出演のために駆けつけたところ、それは村の夏祭りでギャラは村で収穫された野菜や酒だった。
  • 高橋が他の5人と初めて「テンプレート:Lang」を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出してしまい、演奏が中断してしまった。
  • 結成当初、布袋と松井はお互いを敬遠しており、あまり会話を交わすことがなかった。しかしとある地方でのライブ後にふたりで呑むことになり、その席で意気投合した。[14]
  • 『テンプレート:Lang』の時期、当時アマチュアだったテンプレート:Langの今井寿がラフォーレ原宿で布袋を見かけサインを貰うが、偶然この時の今井の服が『テンプレート:Lang』の裏ジャケットで布袋が着ている衣装の色違いだった[15]。
  • 高橋は氷室の免許更新に同伴して群馬に行った際、当時まだアマチュアだった テンプレート:Lang のヤガミトールに焼肉をおごってもらう代わりに、彼の自宅でドラムを2時間叩いてみせたことがある。しかし当時は2人のレベルが違いすぎた為、ヤガミは「いつも使っているドラムセットなのに、何故こんなすごい音が出るのか全くわからなかった」という。[16]
    • 上記の帰郷の際、バイクで高速道路を通って行こうと提案した高橋に着いて行った氷室は、非常に恐ろしい体験をしたと語っている。そして、地元では財布ごと免許証を落としてしまい落胆するが、ファンに拾って貰い事なきを得た。
  • 氷室はまったく酒が飲めず専らコーラ、たまに飲む時でもカルーア・ミルクのミルク多めである。一方布袋は酒に強いため、ライブハウス時代に他バンドの打ち上げの席でテンプレート:音声ルビを宣伝する広報係を担当していた。また高橋は新宿テンプレート:Langに、賞味期限が切れた酒を無料で入れておいて貰う「減らない魔法のボトル」を常にキープしていた[8]。
  • ライブハウス時代にツアーで京都に行った際、布袋はたまたま修学旅行に来ていた妹(後にガラパゴスのボーカルとしてデビューする狩野環)と鉢合わせしてしまい、バツの悪い想いをしたという。[8]
  • 松井はロンドンへ行った際、帰りにデパートで土産物を買おうとしたが英語を全く喋れず、意地になって日本語を貫き通した。
  • 「[[Marionette (BOOWYの曲)|テンプレート:Lang]]」のプロモーションビデオのアニメ・バージョンはガイナックスが制作した。当時ガイナックスの社長を務めていた岡田斗司夫は、後に自著の中で「当時は誰もがあれをやりたがった」と回想している。
  • 『テンプレート:Lang』発売前にラジオで「次は売れる曲出します」と発言したが、その通りに売れた。
  • 『テンプレート:Lang』は、当初ツアータイトルのようにサーカス小屋としてテントを張って、そこをライブ会場にする予定だった。しかし「地ならしのため、ゾウを引き取ってもらわないと困る」と言われ、断念している[17]。
  • 週刊誌フライデーに「氷室は殺人罪の前科あり」という根拠の無い記事を掲載されたことがある。氷室本人はその後のライブで「殺人罪の氷室です」とネタにしていた。
    • 「氷室と布袋が不仲」という記事を掲載された際にも、氷室はライブのメンバー紹介で「彼とは楽屋を別にしてもらってます」とネタにしている。
  • 『テンプレート:Lang』の沖縄公演で、煽っても煽っても縦ノリにならず横揺れなオーディンスに腹を立てた氷室はステージから下がってしまった。結果的には戻って最後まで演奏した。
  • 初期メンバーの諸星(ギター)と深沢(サックス)の脱退理由は書籍によって「音楽性の違い」[18]「今後の不安」[19]「事務所からのMORAL制作スタッフである月光恵亮の提案(諸星・深沢の演奏力不足による解雇を提案)」[20]など諸説書かれており、真相は不明である。しかし、二人のラストライブで氷室が進行役をしたところによると、諸星は「もっと黒っぽい音楽(おそらくブラックミュージックのこと)をやりたくなったから」、深沢は「アクター(俳優)になりたいから」が脱退理由とのこと。深沢脱退が氷室の口から告げられた瞬間、会場内の女性ファンが悲鳴を上げた。二人のラストライブで、深沢は自作詞の曲「テンプレート:Lang」とデヴィッド・ボウイの「[[ジギー・スターダスト|テンプレート:Lang]]」でボーカルを執っている。
    • 深沢は現在も舞台を中心に映画にも出演する俳優として活動中(舞台でサックスを吹くことも)[21]。
    • 諸星はテンプレート:音声ルビ脱退から約1年後に音楽業界より引退したが、1983年11月27日のライブのアンコールに特別出演し、「テンプレート:Lang」を演奏した。
  • 日本のバンドとしては桁外れにブートレッグの数が多い。大半の公演についてブートレッグが存在すると言う説もある(初期の頃は、営業戦略からバンド側がライブの録音、録画を黙認していた)。
    • 但し、上記のブートレッグが出回っている事に関して布袋はマイクロブログテンプレート:Lang上で俳優の山本修司の質問に対し「非常に心外です」と答えている[22]。

解散について

  • 1986年12月16日の長野市民会館でのライブ後、ホテルのバーにてメンバー全員が解散について話し合った[23]。最初に解散を提案したのは布袋だった[10][5][8]。それまでも「1位を取ったら解散」とメンバー間で話してはいたが、あくまでも冗談の範囲内だった。しかしながら『テンプレート:Lang』がメンバー全員にとって音楽的に満足のいく作品となり、『テンプレート:Lang』が初登場1位を記録し商業的にも成功を収めたことから、この時に初めて現実的な内容での話し合いが持たれた。
  • ファンの間では、マスコミに一切公表していないにも関わらず『テンプレート:Lang』の最終公演である「12月24日の渋谷公会堂で解散」という情報が事前に伝わっていた。パソコンや携帯電話はもちろんポケットベルさえ普及しておらず、実際に会って話すか、固定電話を使用する、または郵便物によるもの以外に情報伝達の手段がなかった当時としては異例のことである。
    • これは「活動後期の歌詞や活動内容の加速度・充実度やエピソードから一部ファンと音楽ライターが年内解散を予測しており、複数発生源の口コミとして広まった」ということが、音楽誌「テンプレート:Langやろうぜ!!」の編集後記にこぼれ話として書かれたことがある。
  • 1987年12月24日当日はチケットを入手出来なかったファンが渋谷公会堂の前に多数集まり、会場内の様子を知ろうと揉み合いになるうちに正面入口のガラス戸が割れるという事態にまで発展した。この日のライブを収めたDVD『1224』に、会場前に群がるファンと割れたガラス戸の映像が収められている。終演後は、会場前のファンに向けても「解散宣言をした」とアナウンスされた。
  • NHKではバンド解散が臨時速報され(NHKがバンドの解散を取り上げたのは異例であるテンプレート:要出典)、翌日12月25日の朝日新聞の朝刊にはバンド側からのコメントが掲載された。
  • 翌年の1988年4月4日、5日に東京ドームで行われた『テンプレート:Lang』にて活動終了。『テンプレート:Lang』についてバンド側は「あくまで前年の12月24日でバンドは解散しており、少し早い再結成、同窓会のようなもの」としている。しかし実際には、最終公演後の移動車内でメンバー全員が泣いていたという[24]。

解散の理由

バンド側からの正式な解散理由は未だに発表されていない。各メンバーが、色々な状況が折り重なった結果だといったニュアンスの発言をしている。

  • 要因のひとつとして布袋は「自身が海外での活動を強く希望した」としている[24][5]。
  • 前述の通り、ブレイクする以前からバンド内で「トップに立ったら解散する」と決めていたことも挙げられる。
    • 布袋は1986年10月のインタビューで「最終形のものを描く時が来ると思うんですよ。売れる売れない関係なく。レコード作ったりツアーやって『これで俺らはやることやった』って思う時が来ると思う。そしたらそこでおしまいだと思う。ある意味じゃ解散に向けて頑張ってるんだと思う」と語っている。[25]
  • ブレイクしたことによりファン層が変わりアイドルバンドとして扱われ始めたこと[注釈 2]、あからさまにテンプレート:音声ルビを真似たようなバンドが数多く出てきたことなど、これらの状況に違和感を覚えたとも語られている。
    • 『テンプレート:Lang』のジャケットで布袋が髭を蓄えているのは「アイドルにはなりたくない」という当時の心境からであり、このアルバムのツアー前半では彼本来のステージアクションがなく[8]「まったく動く気になれなかった」と語っている[24]。
    • 高橋はこういった状況について「ファンとの温度差みたいなものが出てきていた。こっちは新しい曲を作っているのに「テンプレート:Lang」や「テンプレート:Lang」を演らないと納得しないようなノリがあったり、布袋がギターソロを弾いているのに氷室ばかり見ている客、氷室が一生懸命歌っているのにまったく違った受け止め方をする客なんかもいたりして、自分たちの音楽が本当に理解されているんだろうかっていうジレンマが生まれてきた」と語っている[26][8]。
  • 「氷室と布袋の不仲が原因」とされる見方があるが、布袋は自身のラジオ番組『ミュージックスクエア』内で否定している。
  • 解散後、氷室は「楽しくて始めたはずのバンドが、ロックビジネスというシステムの中に組み込まれて、少しずつ自分達の考えと違う方向に、勢いがついて転がっていってしまった。 あとは妙な義務感みたいなものがすごく大きくなって、苦しくなってきたのは確か。だから全盛と言われる中で解散したのは、決して後悔すべきことじゃなくて正解だったと思うし、それだけ自分たちが音楽を正直にやっていく上でテンプレート:音声ルビ解散はなくてはならないことだったと思う」と語っている[27]。
  • 布袋も解散後のインタビューで「あれだけ大きくなってしまったからギクシャクせざるを得なくなってしまったというのもすごく大きい」「音とか売り上げとかじゃなく、意識が完成したから解散したんだと思う」と語っている[24]。
    • また著書『秘密』では「決してひとつの理由などではない。もしいま4人が集まり解散の理由を話したとしたら、きっと全員見事にバラバラなのではないかと思う。俺には俺の"絶対に解散せねばならない理由"があったが、それは墓まで持っていく」としている[10]。
  • 松井は「本当にすべてが上手くいっていたら解散なんてしない」「確かに口火を切ったのは布袋だけど、それ以前にも解散の危機は何度もあった」「友達としていつも一緒にいたいけど、でもそれと音楽は別にしなきゃっていう分かれ道だったのかもしれない」と語っている[5]。
    • 一方で「満たされてはいなかったけど、もう選択肢が他になかった」「もしまた、あの4人で同じステージに立てたとしたら、それはすごくエキサイティングだろうなと思う」というコメントも残している。[5]
  • 高橋の著書内でも「テンプレート:音声ルビというメンバー以外の人間も数多く関わっているプロジェクトともなれば、誰が良くて誰が悪いという単純なことは言えない[8]」とされており、各メンバー間においても解散についての捉え方は微妙に異なっている。
  • 吉田豪は、布袋が当時の妻・山下久美子のツアーに注力しすぎたことでメンバー間に溝ができたことが解散理由という説をラジオ番組内で唱えている(現在、テンプレート:Lang でその時の放送を聞くことができる)。

解散後

メンバー間の関わりがあるもののみを記載する。

  • 氷室と高橋はテンプレート:音声ルビが所属していたユイ音楽工房に残留。一方布袋はユイ音楽工房にてテンプレート:音声ルビのチーフプロデューサーを務めていた糟谷銑司と共に個人事務所「テンプレート:Lang」を設立[28]、松井も同事務所に移籍した。氷室が「俺と一緒にやらないのか?」と松井を引き止めたという噂もあったが、本人は「新しい環境に行くことにすごく興味があった」と語っている[5]。
    • これについて、『テンプレート:Lang』の打ち上げに布袋と松井は参加しなかったという経緯もあったことから、バンドがふたつに分裂したという見方もあった。
    • 現在氷室は個人事務所「テンプレート:Lang」に所属、松井も2004年に個人事務所「ソリッド・サウンズ」を設立し独立、高橋はテンプレート:音声ルビのマネージャーだった土屋が代表を務めていた「アースルーフファクトリー」に所属している。
  • 1988年8月26日、MZA有明サウンドコロシアムにて行われた山下久美子のライブ『テンプレート:Lang 1988』に布袋と松井が参加。両者ともバンド解散後、公の場に姿を見せたのはこの時が初だった。
  • 1988年10月26日の国立代々木競技場第一体育館と同年11月15日に大阪城ホールにて行われた布袋のソロ初ライブ『テンプレート:Lang』に松井が参加。
  • 1988年11月19日、日清パワーステーションにて行われた氷室のライブに高橋がゲストで参加。
  • 1989年に布袋が吉川晃司とのユニットであるテンプレート:Langでデビューした際、氷室は「あれが布袋の本当にやりたいことなのかなと思う。『テンプレート:Lang』を発表したのはわかる。そこで、敢えてバンドを組んでああいう事をやる必要性が分からない[29]」とコメントしている。
    • これに対し布袋も、氷室のシングル「テンプレート:Lang」を指し「あんな曲ならばいくらでも作れる」とコメント。これら一連の流れから「氷室と布袋の不仲説」も浮上したが、前述の通り布袋は自身のラジオ番組内で否定している。
    • またテンプレート:Langが解散した際、氷室は「吉川が布袋から受けた音楽的影響は、決して小さいものではないはず」と語っている。
  • 1990年、花田裕之のツアー『テンプレート:Lang』に布袋と松井が参加。
  • 解散後、氷室と布袋が直接会話したのは、布袋の『テンプレート:Lang』完成後。布袋が氷室を訪ねると「聴いたよ」と答え、感想として「長げーよ」とコメントしたという。「良いけど長い」「長いの作りたかったんだからいいんじゃない?」と氷室は答え、率直な感想をもらえたとして布袋は嬉しかったとコメントしている[30]。
    • これ以前にも横浜中華街のレストランで偶然氷室と布袋が居合わせたことがあり、布袋は自身のラジオ番組にて「なんかこっちは緊張したけどね」と語っている。
  • 1992年から1993年に掛けて行われた布袋の『テンプレート:Lang』の京都公演を氷室が観覧した[31]。
  • 1993年3月、氷室のファンクラブイベントに高橋が特別ゲストで参加。当時高橋は[[De-LAX|テンプレート:音声ルビ]]が解散、無気力状態の日々を送っており、かつての戦友である氷室との再会で音楽への情熱が再燃したと語っている[8]。
  • 1993年、松井のアルバム『あの頃僕らは』に布袋が参加。
  • 1994年、高橋のアルバム『楽しき人生』に布袋と松井が参加[注釈 3]。松井は同アルバムのライブにもゲスト参加した。
  • 1994年、松井のアルバム『[[GLACIER (アルバム)|テンプレート:Lang]]』に布袋が参加。
  • 1994年、氷室のアルバム『テンプレート:Lang』に松井が参加。「あれだけのボーカリストなのに、まださらに上へ行こうとしているのは凄い」とコメントしている。
  • 1995年3月7日、阪神淡路大震災の復興支援チャリティーライブに氷室と布袋が出演。それぞれ同じステージに立ったが、共演は行われなかった。
  • 1995年、松井のアルバム『テンプレート:Lang』に布袋が参加。
  • 2001年末、布袋宅でのクリスマスパーティーにて、布袋と松井が解散宣言をしたライブのDVD『1224』を鑑賞した。事前に手元には届いていたものの、両者とも「ひとりでは観るのが怖かった」と吐露している。鑑賞後には布袋、松井とも感極まって泣きながら抱き合ったという。[10][5]
    • 松井はこの時のことを振り返り「解散後ソロをやって、ステージの真ん中に立つというのはこういうことなんだと実感した。あのバンドの中でフロントに立って、何かを声にするということは、想像を遥かに超える過酷さがあったに違いない」とファンに向けて直接解散を宣言した氷室の胸中を察するコメントを語っている。[5]
  • 2002年、布袋のアルバム『テンプレート:Lang』に松井が参加。ツアーにも参加した。
    • このツアー開始直前、布袋は転倒により頭蓋骨骨折と急性硬膜外血腫の重傷を負い全スケジュールが延期となった。のちに松井は「いつでもまた一緒にできるような気はしても、何があるかわからない。だからまたこのギターとプレイすることができて本当に幸せだとツアー中ずっと思っていた。1本1本が本当に大切な時間だった」「(布袋の)復帰にかける執念が音だけじゃく背中からも伝わってきた。だから自分もやるからには完璧にやりたくて、ベースの化身になりたいと思った。歌も歌うソロとは違って、もっともベーシストに徹することが出来る場所だったから」と語っている。[5]
  • 2002年、吉川晃司のアルバム『[[PANDORA (吉川晃司のアルバム)|テンプレート:Lang]]』に松井と高橋が参加。
  • 2003年、布袋のアルバム『[[DOBERMAN (アルバム)|テンプレート:Lang]]』に松井が参加。ツアーにも参加した。
  • 2003年、松井のソロ・プロジェクト『テンプレート:Lang』に布袋がギター、共同作曲、プロデュースで参加。
  • 2004年8月22日、氷室が東京ドームにて、テンプレート:音声ルビの楽曲を自らのソロ曲と共に演奏する「テンプレート:Lang テンプレート:Lang」を行った。
    • 高橋は当日ライブを観覧し「純粋に楽しめた[8]」とコメント。布袋は「(本人からテンプレート:音声ルビの楽曲をやることについて)聞いていない」とのみコメント。松井は「あれはないよね」と否定的なコメントを残している。
    • また氷室は同ライブを放送したテレビ番組のインタビューで、「今後テンプレート:音声ルビが再結成する可能性はあるのか?」という質問に対し「良い質問ですね」と笑顔を見せるも「それはないですね」と即答している。
  • 2004年12月30日、「ザ・ベストテン」の特番に吉川晃司が「モニカ」で出演した際、松井と高橋がサポートで参加した。
  • 2011年6月11日、6月12日に東京ドームにて、氷室の東日本大震災の復興支援チャリティーライブ「テンプレート:Lang テンプレート:Lang」が行われた。
    • このライブは、テンプレート:音声ルビの楽曲で全編が構成された。当初は50歳のアニバーサリーライブを予定し3月14日に発表する準備をしていたが、その直前に震災が起こったため一旦発表を延期し、公演の内容を見直していた。結果「チャリティーの為にライブを行い、より多くの収益金を集め、被災地へダイレクトに届ける」という趣旨のもと開催する運びとなる。
    • しかし氷室がテンプレート:音声ルビの楽曲を演奏する件に関しては布袋、松井、高橋には寝耳に水であったようで[32]、高橋が氷室にエールを贈ったものの[33]、松井は氷室のアクションを高く評価しつつも「でも、少し寂しい。どうして声を掛けてくれなかったのかと。こんな時だからこそ、再び4人で手を握り合い、大いなる目的のために、協力し合うべきだと思った。一緒に活動を共にしていた仲間としては、残念でならない」と語った[34]。
    • また布袋は、マイクロブログ テンプレート:Lang 上で氷室に関する質問攻めにあってしまった事もあり2日程沈黙を続けていたが、後に自身のブログ上で「再結成を望む気持ちは皆さんと同じでした」「氷室京介氏の復興支援に向けたアクションは、彼の信念に基づいた選択であるはずです。僕はそれを否定的にとらえる気持ちなど全くなく、リスペクトしています」と述べた上で、「そして同時に自分の中で踏ん切りがつきました」と、今後も再結成は非現実的であることを伝えた[35]。
    • 後に氷室本人はこのライブについて「出来るだけ集客することで収益は増え、チャリティーの効果がより高くなる。オーディエンスをたくさん集めるために、世間に強いインパクトがあって、より多くのファンが臨むこと、という発想で「全曲テンプレート:音声ルビ」に繋がった」とした上で、「メンバーの気持ちまで考えてなかったのがいけなかった」と反省の弁も語っている[36]。
    • 松井は6月11日のライブを観覧し、「テンプレート:音声ルビを歌う氷室京介は、何年経っても、何歳になっても、せつないまでに、あの頃のままだった。素晴らしいステージ、そして、素晴らしい時間でした。」とコメントした[37]。
    • ライブ当日氷室は「来月にここで友達がライブを演るみたいなんで」と、同じくチャリティーライブの為に7月30日、7月31日の二日間限定でテンプレート:Langを再始動させた布袋と吉川を指すMCも発している。
  • 2012年2月1日、さいたまスーパーアリーナにて行われた布袋の50歳バースデーライブである『テンプレート:Lang 第四弾 テンプレート:Lang テンプレート:Lang "最終章" テンプレート:Lang 〜テンプレート:Lang〜』に高橋がゲストで参加。『テンプレート:Lang』以来、24年振りとなるステージ上での共演を果たした[38][39][40][41]。テンプレート:音声ルビ楽曲では「[[JUST A HERO (BOOWYのアルバム)|テンプレート:Lang]]」と「テンプレート:Lang」が披露されている。
  • 2012年3月24日、郡山カルチャーパーク・アリーナにて行われた高橋の東日本大震災の復興支援チャリティーライブ『つながろう ふくしま 〜絆〜 スペシャルライブ with 高橋まこと』に布袋がゲスト参加。テンプレート:音声ルビ楽曲では「テンプレート:Lang」、「テンプレート:Lang」、「[[BOØWY (アルバム)|テンプレート:Lang]]」が披露されている。
  • 2012年10月11日から14日にかけて行われた布袋の『テンプレート:Lang』に高橋が参加。「テンプレート:Lang」では高橋のボーカルも披露された。
  • 2013年2月2日、布袋が出演した夢メッセみやぎの『テンプレート:Lang 2013』に高橋が参加。テンプレート:音声ルビ楽曲ではテンプレート:音声ルビと共に「テンプレート:Lang」、吉井和哉、雅、オオキノブオと共に「テンプレート:Lang」を披露。
  • 2013年4月6日、7日に代々木 テンプレート:Lang にて高橋が行なった『福島復興支援 チャリティーテンプレート:Lang テンプレート:Lang テンプレート:Lang テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 〜 テンプレート:Lang 〜』に、1982年10月に脱退した深沢がゲストで参加。
  • 『テンプレート:Lang』以降、4人全員が揃った唯一の場とされているのが、カメラマン加藤正憲の結婚式である。[8]。

作品

テンプレート:Main

シングル

アルバム

公演

年 タイトル 公演規模・会場・セットリスト 収録作品
1981年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全10公演
  • 5月11日 新宿ロフト
  • 6月27日 新宿ロフト
  • 7月16日 新宿ロフト
  • 8月12日 新宿ロフト
  • 9月17日 新宿ロフト
  • 10月9日 前橋ガルシア
  • 10月10日 前橋ガルシア
  • 10月19日 新宿ロフト
  • 11月3日 河口湖ホテルライブ
  • 11月6日 新宿ロフト
1982年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全33公演
  • 1月28日 新宿ロフト
  • 2月16日 新宿ロフト
  • 3月1日 原宿クロコダイル
  • 3月24日 新宿ロフト
  • 3月29日 原宿クロコダイル
  • 4月6日 渋谷ライブイン
  • 4月21日 新宿ロフト
  • 5月3日 前橋河川敷コンサート
  • 5月11日 渋谷屋根裏
  • 5月14日 渋谷エッグマン
  • 5月29日 新宿ロフト
  • 5月30日 千葉マザーズ
  • 6月4日 渋谷テンプレート:Lang
  • 6月13日 渋谷テンプレート:Lang
  • 6月19日 新宿ACB
  • 6月27日 新宿ロフト
  • 7月2日 中野公会堂
  • 7月3日 千葉マザーズ
  • 7月5日 新宿ロフト
  • 7月14日 渋谷屋根裏
  • 7月16日 京都ディスコ
  • 7月18日 新宿ロフト
  • 8月6日 千葉マザーズ
  • 8月8日 新宿ロフト
  • 8月23日 渋谷テンプレート:Lang
  • 9月9日 渋谷テンプレート:Lang
  • 9月18日 新宿ロフト
  • 10月9日 新宿ロフト
  • 10月30日 相模原職業訓練大学祭
  • 11月6日 東京水産大学祭
  • 11月17日 目黒鹿鳴館
  • 12月4日 千葉マザーズ
  • 12月6日 新宿ロフト
1983年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全38公演
  • 1月4日 渋谷エッグマン
  • 1月5日 千葉マザーズ
  • 1月15日 新宿ロフト
  • 3月9日 新宿ロフト
  • 4月30日 新宿ロフト
  • 5月14日 千葉マザーズ
  • 5月24日 新宿ロフト
  • 6月5日 柏クレイジーホース
  • 6月18日 新宿ロフト
  • 6月22日 横浜シェルガーデン
  • 6月24日 六本木ハードロックカフェOPEN記念ライブ
  • 7月7日 渋谷ラ・ママ
  • 7月9日 千葉マザーズ
  • 7月10日 新宿ロフト
  • 7月26日 新宿ロフト
  • 7月31日 佐賀 県民の森イベント
  • 8月1日 小倉 テンプレート:Lang
  • 8月13日 新宿ロフト
  • 8月17日 渋谷ライブイン
  • 9月22日 新宿ロフト
  • 9月25日 高崎テンプレート:Lang
  • 10月1日 新宿ロフト
  • 10月2日 柏クレイジーホース
  • 10月5日 渋谷テンプレート:Lang
  • 10月17日 京都テンプレート:Lang
  • 10月18日 名古屋E.L.L
  • 10月22日 高崎テンプレート:Lang
  • 10月27日 渋谷ライブイン
  • 11月4日 文化服装学園祭
  • 11月20日 神戸チキンジョージ
  • 11月23日 大阪ボトムライン
  • 11月24日 名古屋E.L.L
  • 11月26日 清水テンプレート:Lang
  • 11月27日 新宿ロフト
  • 12月2日 新宿ライブイン「紫」
  • 12月18日 高崎福祉会館
  • 12月26日 渋谷ライブイン
  • 12月31日 西武劇場
1984年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全21公演 DVD『"GIGS"BOX』
1984年 BEAT EMOTION 全22公演
  • 7月7日 新宿ロフト
  • 7月8日 名古屋E.L.L
  • 7月10日 京都テンプレート:Lang
  • 7月11日 大阪バーボンハウス
  • 7月13日 神戸チキンジョージ
  • 7月25日 高崎市アマチュア・ロック・コンテスト
  • 7月27日 渋谷ライブイン
  • 7月28日 渋谷ラ・ママ
  • 8月5日 高松市のカフェバー
  • 8月7日 高知 窪川体育館
  • 8月8日 土佐清水市民会館
  • 8月9日 高知県立県民文化ホール 小ホール
  • 9月1日 渋谷東横劇場「テンプレート:Lang」
  • 9月29日 渋谷ライブイン
  • 10月10日 高崎市文化会館
  • 10月27日 渋谷ライブイン
  • 11月4日 駒澤大学学園祭
  • 11月23日 明治大学生田祭
  • 11月25日 千葉工大祭
  • 11月30日 前橋文化センター
  • 12月6日 仙台ヤマハホール
  • 12月7日 山形ミュージック・ショーワ
1985年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全6公演 DVD『"GIGS"BOX』
1985年 BEAT TO PLATON 6都市全8公演
1985年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 16都市全22公演
1986年 JUST A HERO TOUR 25都市全37公演

全20曲

ビデオ『テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang』
1986年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全7公演
  • 7月20日 札幌市民会館(HBCフレッシュコンテストゲスト出演)
  • 7月27日 夕張石炭の歴史村(パロ・パロ・ロック・フェス)
  • 8月2日 福岡 恋の浦(サマー・ピクニック)
  • 8月3日 福岡 恋の浦(サマー・ピクニック)
  • 8月4日 新宿 都有3号地(ウォーター・ロック・フェス)
  • 8月8日 秋田県営ラグビー場 (テンプレート:Lang)
  • 8月10日 スポーツランドSUGO (テンプレート:Lang'86)
DVD『テンプレート:Lang』
1986年 - 1987年 ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR 31都市全37公演

全21曲

1987年 テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang 全6公演 DVD『"GIGS"BOX』
1987年 テンプレート:Lang テンプレート:音声ルビ 2都市全2公演

全39曲

1987年 DR.FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR 33都市全36公演

全22曲

ビデオ『1224』
1988年 "LAST GIGS" 全2公演

全23曲

書籍

写真集

関連書籍

関連項目

脚注

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注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:BOØWY テンプレート:日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー

  1. ↑ http://www.rbbtoday.com/article/2014/07/14/121650.html
  2. ↑ http://irorio.jp/gt1999/20140714/148861/
  3. ↑ http://topics.jp.msn.com/entertainment/music/article.aspx?articleid=5074890
  4. ↑ テンプレート:Cite web
  5. ↑ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 『記憶』 松井常松(2009年 徳間書店)
  6. ↑ 東京パワーゲート公式サイト
  7. ↑ 後のPARCO劇場
  8. ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 8.11 8.12 『スネア』 高橋まこと(2007年 マーブルトロン)
  9. ↑ INLIFE 男の履歴書 氷室京介
  10. ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 『秘密』 布袋寅泰(2006年 幻冬舎)
  11. ↑ 月刊カドカワ1991年4月号 総力特集氷室京介70ページ
  12. ↑ テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang、116ページ(2004年 宝島社)
  13. ↑ 昨日は涙雨?かな。ざんす。 高橋まことのぼちぼちブログ
  14. ↑ 『ミュージックスクエア』での布袋と松井の会話より
  15. ↑ テンプレート:Lang 寿記-寿的超日常記-
  16. ↑ テンプレート:Lang(1989年 シンコー・ミュージック) ISBN 4-401-61275-2
  17. ↑ テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang、135ページ(2004年 宝島社)
  18. ↑ 写真集「テンプレート:Lang」の年表
  19. ↑ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評18 テンプレート:音声ルビと「日本のロック」
  20. ↑ テンプレート:Lang、117ページ
  21. ↑ [1]
  22. ↑ @布袋寅泰 非常に心外です。
  23. ↑ テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang、136ページ(2004年 宝島社)
  24. ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 「テンプレート:Lang」1988年6月号、「テンプレート:Lang」、ロッキングオン。
  25. ↑ 「テンプレート:Lang」、p.76、ロッキング・オン、1988年。
  26. ↑ テンプレート:音声ルビ テンプレート:Lang、40ページ(2004年 宝島社)
  27. ↑ VHS / DVD 『テンプレート:Lang』のインタビューより
  28. ↑ 『糟谷岡崎堂』 2012年8月29日の記事より
  29. ↑ 宝島のインタビューより
  30. ↑ 「テンプレート:Lang」 1991年11月号インタビューより
  31. ↑ 布袋寅泰『よい夢を、おやすみ』(1993年 八曜社)ISBN 4827001391
  32. ↑ 氷室京介の「全編BOOWY」チャリティーLIVE 残されたメンバー3人が胸中綴る オリコン 2011年4月19日
  33. ↑ こんにちは(^^)ざんす。 高橋まことのぼちぼちブログ
  34. ↑ テンプレート:Lang 2011年4月18日参照
  35. ↑ テンプレート:音声ルビ BEAT主義日記
  36. ↑ 2011年5月5日放送 テンプレート:Lang 特別編 「氷室京介 密着250日」でのコメントより
  37. ↑ テンプレート:Lang、2011年6月11日参照
  38. ↑ 高橋まこと 友情出演決定! テンプレート:Lang主義日記
  39. ↑ こんにちは!ざんす。 高橋まことのぼちぼちブログ
  40. ↑ テンプレート:Cite news
  41. ↑ テンプレート:Cite news


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