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新潟市の行政区域の変遷

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新潟市の行政区域の変遷(にいがたしのぎょうせいくいきのへんせん)では、新潟県新潟市の前身である新潟町の成立から過去の市町村合併及び、政令指定都市移行構想について記載する。

新潟市は、信濃川西岸の新潟区および関屋村萬代橋でつながる東岸の沼垂町が合併して出来た旧新潟市が中心となって発展してきた。昭和の大合併において周辺市町村を次々と合併し、平成の大合併においても周辺の14市町村と合併し、現在の市域となった。

沿革

新潟町移転後

[2]

市制施行後

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市制施行から現在までの合併の経緯

新潟町の成立と移転

新潟という地名は永正17年(1520年)に文献に記され、それよりも古い時代に新潟の町が成立したと考えられている。新潟町が現在の古町の区域、信濃川河口の白山島・寄居島に移転したのは明暦元年(1655年)のことである[1]

明暦の移転以前の経緯は明らかになっていないが、新潟町の移転伝承が載せられている史科がひとつだけ残されている。天明4年(1784年)の長岡藩士大瀬庄左衛門の手記『温古の栞』には、永正年間に赤塚村、佐潟周辺に湊があり、そこに新潟の町があったこと、天文年間に青山村への移転したこと、元和3年に関屋村と寄居村の間の土地に移転したこと、明暦元年末までに現在地へ移転したことについての伝承が記されている[1][3]

元和の移転(古新潟への移転)

元和2年(1616年)、新潟が長岡藩堀直寄領となり、翌年の元和3年(1617年)に直寄から新しい町建てを命じられる。その位置は「蒲原新潟立会小絵図」によれば「古新潟(ふるにいがた)」と呼ばれ、現在の学校町、新潟大学医学部周辺とされている[1]

明暦の町建て

寛永15年(1638年)、長岡藩主牧野忠成新発田藩溝口宣直に「信濃川の流れが変わったため、新潟町を最寄りの白山島・寄居島に移転させる」という旨の書状を出し、了解を得る。その後新発田藩と協議し、幕府の許可も得て寛永20年(1643年)に州崎番所が建てられる[1][4]

しかし、この時にはまだ町は移転しておらず、長岡藩が幕府から移転の許可を得たのは承応3年(1654年)のことだった。実際に町の移転はその前から徐々に行われていたが、長岡藩は幕府からの回答があった翌年の明暦元年(1655年)を新潟町移転の年としている[1][4]

町を移転するに当たっては、それまでの町割りを崩さずに移転することが原則とされた。そして、信濃川に並行して古町、本町、大川前の通りが作られ、片原堀(東堀)、寺町堀(西堀)などの掘割をもって運輸網とされた[1]

新しくできた土地の開発

1655年(明暦元年)に現在地へ移転したときの新潟町の範囲は、寺町(現西堀通)と大川前通(現上大川前通)の間で、通り筋の北側の町はずれはだいたい洲崎町(現古町通13番町)であった。大川前通の「大川」は信濃川を指し、文字通り信濃川左岸に面した通りであった。[5]

信濃川河口は、川によって運ばれる土砂の堆積によって次第に東へ移動し、町外れから河口までの距離は毎年伸びていた。また、信濃川左岸の新潟町側には砂州が付いたり、中州が寄り付いたりしていた。こうしてできた信濃川縁のの土地は、榛木島(はんのき)、秣島(まぐさ)、毘沙門島(びしゃもん)、上島(かみ)、下島(しも)などと呼ばれた[2][5]

一方、海岸側も信濃川が供給する土砂によって砂丘が増え続け、海岸線は沖合へ伸びていった。新潟町では、年々新しい土地が生まれていた。新潟町の人々は、信濃川寄りに生まれた土地を浜手、海岸寄りの砂丘地を山手と呼んでいた[2][5]

明治時代の合併

新潟区の設置

1878年(明治11年)7月、政府は「郡区町村編制法」を定め、大区小区制を廃止した[6]

これによって町村が行政の単位として復活[6]。また、狭い地域に多くの人が集まっている土地には、郡とは別に直接県の監督を受ける行政機関として「区」を置いた[6]

新潟県は、1879年(明治12年)4月に郡区町村の区画を決定[6]蒲原郡は4郡となり、新津町に中蒲原郡役所、巻村に西蒲原郡役所が置かれた[7]。新潟県では、新潟町が区に指定されて「新潟区」となり、寄居白山外新田が編入された[6]1887年(明治20年)には西鳥屋野島を編入し、区域を広げた。

市制の施行

1889年(明治22年)4月1日、「市制」の施行によって新潟区は「新潟市」となった[8]

新潟市は「市制」を施行するにあたり、西蒲原郡関屋村古新田を合併した[8]。関屋の人々は、「関屋と新潟は地理的にも経済的にも、そして交通上でも一体であり、新潟区が市として将来発展するためには、関屋の土地が役に立つ」と、西蒲原郡長に合併を請願した[9]。その結果、21年12月に内務大臣から合併が許可され、1889年(明治22年)4月1日の「市制」の施行とともに合併が告示された[10]

同じころに「町村制」が施行。町村の合併が進められ、現市域内の市町村は1市(新潟市)・123町村になった[7]明治の大合併)。

明治34年の合併

1889年(明治22年)の町村合併は、「市制」・「町村制」の施行に伴って、国から委任された行政事務を円滑に行うことができる行政能力を備えた独立の町村とすることが目的であったが、各町村の反対によりその意図を十分に果たせなかった[11]

新潟県の町村の規模は全国的にみると小さく、300戸に満たない町村が全体の55%に達していた[11]。就学率が上昇するにつれて学校を建てて教員を増やさなければならなかったが、財政の問題から一村で学校を設置できず、何ヶ村かで学区組合を作って学校を運営している所が多かった[11]

こうした村々を地理条件や民情を考慮しながら、より強い大町村に変えることが必要であると考えた新潟県は、1901年(明治34年)に新潟県独自で町村合併を実施することにした[12]。この大合併で現市域内の市町村は、1市・67町村になった[7]

大正時代の合併

沼垂町との合併

新潟市と沼垂町との合併。「信濃川を挟んだ二つの町は、早くから合併したほうが良い」という意見は早くからあり、1880年(明治13年)ごろにはすでに話題にあげられていた[13]

しかし、江戸時代の湊をめぐる度重なる訴訟や、明治以降も続いた漁場をめぐる争いなどがあり、一般の人々の間には反目が残っていた[13]。さらに、1896年(明治29年)から1897年(明治30年)には北越鉄道(信越本線)の終着駅の位置をめぐって新潟市と沼垂町は争い、鉄道施設の爆破事件まで起きていた[14]。このため、新潟市と沼垂町の合併は、容易に実現できるものではないと考えられていた[15]

1907年(明治40年)に沼垂町で大火があったとき、新潟市の消防ポンプが活躍したことがきっかけとなって、合併問題が日程に上がるようになった[15]。消防の礼に沼垂町長と助役が新潟市長を訪問した際に、新潟市と沼垂町が合併して大都市を建設するということが話題となったことから、両者は、折を見て合併に向けて懇談会を開催することを約束した[15]

合併反対の動き

沼垂町は1913年(大正2年)10月に、合併について町民の理解を得るための説明会を開催した。しかし、説明は合併反対派の妨害により途中で解散となった[16]。反対派の主張は、「人情、風俗、生活習慣の異なる新潟市と合併しなくとも、沼垂町は発展する」というものであった[16]。反対派は町会に合併反対の請願や建議を提出し、事務所を設けたり、町長代理の家へ押し掛けたりするようになった[16]

これに対して11月4日に新潟県知事自らが沼垂町を訪れ、合併の必要性を説いた[16]。合併賛成派は「合併問題を検討する合併研究会」を結成し、12月11日に沼垂座で第一回大会を開いた[16]。しかし、反対派はこの会への出席を拒み、賛成派の意見だけが発表される会となった[16]。さらに、16日には第二回大会を開き、税負担が軽減されることを説いた[17]

反対派は1914年(大正3年)1月17日に浄徳寺に1,000人余りを集めて町民大会を開いた[18]。また、政府へも陳情したが、町会は合併派が優位を占め、新潟県知事の積極的関与の下で合併準備が着々と進み、反対派は急速に勢力を失っていった[18]

合併の実現

1914年(大正3年)4月1日、新潟市と沼垂町は近代埠頭の築造を期して合併し[7]、過去の様々な出来事を乗り越えて実現した[13]。当日は花火が揚がり、新潟市内には幔幕が張られたほか、桜提灯や日の丸が掲げられ、白山公園で祝賀会が開催された[13]

昭和時代の合併

戦時下の合併

1939年(昭和14年)。新潟県は工場を誘致し、それまでの都市計画を変更して「大都市計画」を実行に移すために、新潟市周辺の町村との合併を亀田町内野町松ヶ崎浜村大江山村石山村大形村鳥屋野村曽野木村坂井輪村黒埼村に働きかけた[19]

しかし、周辺町村は合併に消極的で、1942年(昭和17年)に県の斡旋によって内々に交渉を始め、合併に傾いた内野町との合併も、坂井輪村の1~2集落の反対によって立ち消えとなっていた[20]。そうしている間に、大形村、石山村、鳥屋野村には大工場や鉄道官舎などが進出し、村内には町並みが新潟市域と一体の地区ができ始め[20]、3村は1943年(昭和18年)に新潟市と合併した[7][21]

大形村との合併

1943年(昭和18年)に入ると、大形村の工場の防空体制を整備する関係から、新潟市と大形村の合併を急がなくてはならなくなった[20]

新潟県は、2月に「軍需工場設置に必要な合併は、反対を押し切っても促進する」という方針を立て、6月1日に両市村は合併した[20]。村の意向よりも「国家的見地」が強調された合併であった[21]

石山村、鳥屋野村との合併

新潟市と大形村の合併は、石山村、鳥屋野村の合併を促進させた[21]

石山村は、6月5日の「石山村報」で「農村としては相当考慮が必要であるが、「戦時増強」が第一であり、一村の歴史や個人的な立場は放棄せざるをえない」と表明した[21]

鳥屋野村は、昭和橋周辺や出来島付近は市街化、工場地帯化していたが、農村部が合併によって農業が軽視されることを恐れ、合併に反対する意見が多かった[21]。そのため、鳥屋野村は合併について態度を明確にすることができなかったが、10月7日に新潟県が「合併を早急に実現することが、「国家の要請」にこたえることである」と鳥屋野村に通知したことから、鳥屋野村も合併せざるをえなくなった[21]

11月11日に石山村と鳥屋野村は、新潟市と協議会を開いて合併条件について話し合い、12月8日に合併した[21]

昭和の大合併(1)

地方自治法が施行された1947年(昭和22年)、市域は1市48町村であった[22]

1949年(昭和24年)9月の「シャウプ勧告」によって、昭和20年代後半から30年代の前半にかけて、町村合併が強力に進められた。この勧告は市町村財政の強化と、国、県市町村間の行政事務の再配分による市町村権限の拡大を求めるもので、その一環として合併を奨励した。[23]

これは、いわゆる「昭和の大合併」と呼ばれるもので、1953年(昭和28年)から全国的に合併が進められ、1961年(昭和36年)に3市12町村になった[22]

新潟市は、「町村合併促進法」が施行されたころから、近隣町村との合併による「大新潟市構想」を独自に打ち出していた[24]。この構想は文化的交流、経済的関連性、地理的条件などを考慮して、北蒲原郡濁川村南浜村西蒲原郡内野町坂井輪村黒埼村中蒲原郡亀田町曽野木村両川村横越村大江山村を合併対象に上げ、1939年(昭和14年)に計画されていた「50万都市構想」の復活といえるものであった[25]

新潟市では、「町村合併促進法」とともに、この大都市構想が合併の機運を盛り上げ、合併を進めた[25]

松ヶ崎浜村との合併

この合併の動きとは別に、新潟市は1954年(昭和29年)4月5日松ヶ崎浜村と合併した[25]

「町村合併促進法」制定前の1950年(昭和25年)から、松ヶ崎浜村は新潟市との合併の調査を進めていた。北蒲原郡の西端にあり新潟市と隣接する松ヶ崎浜村は、村内に新潟飛行場があり、交通、産業、教育などの様々な面で新潟市と深い関係があった[25]

この合併は、戦後の近隣町村合併の契機になり、2001年までの新潟市域へ発展する端緒となった[26]

濁川村、南浜村、坂井輪村との合併

「町村合併促進法」による町村の標準人口は8,000人以上であったため、人口約4,200人の濁川村、約5,000人の南浜村、約6,700人の坂井輪村は、どこかと合併しなければならなかった[26]

1954年(昭和29年)3月17日に出された新潟県の合併計画案では、濁川村、南浜村は木崎村と合併することになっていたが、北蒲原郡町村合併促進委員会は、3月27日葛塚町を中心に岡方村長浦村、南浜村、濁川村、木崎村を合併する案を上げ、いずれも濁川村、南浜村と新潟市との合併は考慮していなかった[26]。しかし、このときすでに新潟市は、濁川村、南浜村に合併を申し入れていた[26]

新潟市の呼びかけに、濁川村は3月27日に、南浜村は4月3日に合併を議決[26]。両村の新潟市との合併の動きに北蒲原郡町村合併促進委員会は引き止めを図ったが、両村とも新潟市との合併の意思を変えなかった[26]

坂井輪村は、新潟県の合併計画案では内野町と合併することになっていたが、村では自主独立の方針を採っていた[27]1954年(昭和29年)3月、坂井輪村は内野町から「大内野町構想」に基づいて赤塚村、中野小屋村とともに合併を呼びかけられていた[28]。また、新潟市からも、合併の申し入れがあった[28]。こうした働きかけに坂井輪村でも合併の機運が高まり、村民の世論調査の結果、6月26日に新潟市との合併を決めた[28]

新潟市議会は3村の合併を議決し、1954年(昭和29年)11月1日に合併した[28]

旧木崎村浜浦谷内の編入

濁川・南浜両村に隣接する木崎村はそもそも大新潟市構想に含まれていなかったが、両村の新潟市との合併の意思は、木崎村の態度を流動化させることになった。ただ、人口が約9,600人であったこともあり、残った四町村(葛塚町・木崎村・岡方村・長浦村)では最も合併に消極的であった。それが、どちらかといえば新潟市へ合併という雰囲気を生じさせてしまった。ところが、1949年10月1日 県より残った四町村での合併計画案が公表され、それを受けて11月9日新潟市議会議長より「これ以上北蒲原西部郷とは合併しない」旨の発言が出たことで、木崎村の新潟市合併がなくなり、全村四町村合併への参加となった。 この時、南浜村に隣接している浜浦谷内・下大谷地の分村、新潟市編入に関する木崎村との約束が有耶無耶となり、更にこの件を豊栄町議会が否決してしまう。豊栄町側は長浦村が合併できていない状態での分町で町の弱体化につながることを恐れていた。この対応に住民は業を煮やし、学童の同盟休校や南浜の小中学校への転校などの手段にでて大問題に発展。幾度となく調停を進めた結果、全員新潟市編入を希望している浜浦谷内は1960年4月1日に編入(現北区白勢町ほか)。意見が二分している下大谷地はそれに先立ち1960年2月25日住民投票の結果、新潟市編入が規定の2/3を上回れず、豊栄町に残ることになった。

合併の難航

新潟市の「大都市構想」に基づく合併はこの後難航し、特に亀田町と内野町との合併は大問題となった[28]。両町とも自立の方針であったが、この働きかけによって合併へ動き出した[28]

亀田町は1954年(昭和29年)8月29日に住民投票を行い、合併賛成が投票総数5,199票のうち3,922票を占めたため、合併申入書を新潟市に提出した[28]。一方内野町では、新潟市合併派と大内野町構想派との間で激しい抗争となった[29]

1954年(昭和29年)9月24日、新潟市市長は新潟市議会本会議で、「合併は財政負担を増大するものであり、今後も続けるのならば市の財政危機をもたらすので一時見送る」と発言したため、亀田町は10月28日に合併申入書を取り下げ、内野町では内紛がいっそう激しくなった[30]

昭和の大合併(2)

1954年(昭和29年)の市長による合併打ち切り発言後、一時中断していた周辺町村との合併問題は、1956年(昭和31年)の「新市町村建設促進法」施行を契機に、再び合併機運が盛り上がった[31]

両川村、曽野木村、大江山村との合併

1954年(昭和29年)5月18日。両川村、曽野木村、大江山村の3ヶ村の村長は、新潟市役所を訪れ、新潟市長に合併の早期実現を陳情した[31]。新潟市は、健全財政維持の見地から合併に慎重であったが、県の勧告や法改正で市の負担も軽減されること、3ヶ村が熱望していることから、1957年(昭和32年)中に実現させることとした[31]

1957年(昭和32年)5月3日。両川村、曽野木村、大江山村は、新潟市と合併した[32]

内野町との合併

内野町では、依然合併をめぐる内紛が続いていた。内野町議会で多数を占める合併推進派は、町議会で新潟市との合併を決議しようとした。これに対し、商店街などの反対は激しく、町議会は収拾が着かない状態になった[32]

1955年(昭和30年)、町長と町議会議員が改選。町議会議員全員が合併推進委員となって新たに近村合併の方針を打ち出したが、1957年(昭和32年)になって内野町、中野小屋村、升潟村、赤塚村の4町村が一団となり、新潟市と合併するという案が出てきた[32]。1957年(昭和32年)3月、新潟県は内野町の一部を新潟市と合併し、残りの内野町と赤塚村、中野小屋村の一部で新しい自治体をつくるよう勧告した[32]。この後、内野町では全町で新潟市と合併しようとする動きが強まり、1958年(昭和33年)2月、町議会は新潟市への合併申し入れ議案を可決した[32]。しかし、新潟市は県の計画があることと、町内に反対があることなどから合併申し入れの受諾を渋った[32]

1959年(昭和34年)3月、県はこの地区の合併計画を新潟市、内野町、赤塚村、中野小屋村の一部を合併に再び変更[32]。これにより、内野町は町議会で新潟市との合併を満場一致で議決[32]。さらに1959年(昭和34年)4月の統一地方選挙後の内野町議会も満場一致で合併を決議し、5月18日、新潟市長と新潟市議会議長に正式に合併を申し入れた[32]。内野町は1960年(昭和35年)1月11日に新潟市と合併し、長期間、混迷を続けた内野町合併問題は解決した[32]

赤塚村、中野小屋村との合併

赤塚村と中野小屋村は両村とも、内野町の事情や新潟県の合併計画に影響された[32]

赤塚村は、新潟市との合併を1959年(昭和34年)4月の村議会で全員一致で議決し、内野町と同時合併を希望したが、新潟市の段階的合併の意向と、中野小屋村の分村運動との関連で実現しなかった[32]

中野小屋村は、村の北側は当初は内野町、後には新潟市と合併するという考えであったし、南側は升潟村、西川町と合併するという考えであった[33]。新潟市は中野小屋村全村なら合併を考慮するという意向であり、一方、新潟県は1959年(昭和34年)に中野小屋村の分村計画を表明していた[34]。合併をめぐって村内の対立は激化した。新潟県は「新市町村建設促進法」の期限が切れる、1961年(昭和36年)6月以前に中野小屋村の合併問題を解決するために、3月9日の住民投票を実施した<新潟市通5、p.191" />。

この結果、全村で新潟市に合併することになり、1961年(昭和36年)6月1日に赤塚村と中野小屋村は同時に新潟市と合併した[34]

平成の合併

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旧新潟市域(旧黒埼町を含む)(青)と、編入13市町村の市域(緑)

新潟市は、2001年(平成13年)1月1日黒埼町との合併を皮切りに、2005年(平成17年)3月21日には、豊栄市亀田町横越町新津市小須戸町白根市味方村月潟村中之口村西川町潟東村岩室村の近隣12市町村を新潟市編入合併。同じ年の10月10日には巻町も編入。これによって新潟市は現在の市域となり、人口約81万人、面積約726平方キロメートルを有することになった[22]

いわゆる「平成の大合併」のひとつではあるが、合併の背景としては、道路網や情報伝達手段の発達により、通勤、通学、買い物などの住民の日常生活の範囲が居住する市町村に関係なく拡大。1日の大半を新潟市で過ごす周辺市町村の住民は多いが、他市町村の住民であるために十分な行政サービスを受けることができないといった問題や、行政区域が異なることによる行政サービスの格差が顕在化してきた。[35]

住民サービスを提供する行政側としても、受益の負担と乖離といった問題を直視しなければならず、各市町村では住民に一番身近な自治体として、多様化、高度化した住民ニーズに応えるために、効率的、効果的な行政運営を行うことが求められてきていた[35]

黒埼町との合併

黒埼町は地勢的に見ても新潟市に食い込む形で位置し、日常生活においては通勤、通学、買い物のいずれの分野でも新潟市へ向かう町民の割合が高く、日常範囲の一体化が進んでいた。

こうした中、1989年(平成元年)の黒埼町長選挙で「新潟市との合併に関して住民アンケートを実施する」ことを公約の一つに掲げた町長候補が当選。1991年(平成3年)には、「新潟市との合併問題に関するアンケート」が実施された[35]

アンケートの結果、合併賛成が67.6%を占めたことから、1992年(平成4年)に合併に係る問題点についての検討を行う「新潟市・黒埼町合併問題調査検討会」を設置。1995年(平成7年)から1999年(平成11年)にわたって、新潟市と黒埼町とで「新潟市・黒埼町合併問題協議会」を開催。2001年(平成13年)1月1日に黒埼町は新潟市と合併した[35]

周辺12市町村との合併

新潟市は隣接する黒埼町と合併した2001年。新潟県市町村合併促進要綱による、新潟圏域の政令指定都市移行型合併パターンとしての提示や、様々な支援策が盛り込まれた国の市町村合併支援プランの提示により、全国的に合併が強く推進されることとなった。[36]

この流れを受け、新潟県から政令指定都市移行型合併パターンとして提示された、新潟市、新津市、白根市、豊栄市、小須戸町、横越町、亀田町、味方村、月潟村、中之口村の10市町村は、8月23日に市町村合併に関する調査・研究をおこなうため、「新潟地域市町村合併問題研究会」を設置し、行政制度の比較作業を始めた。11月には西川町も加わった[36]

こうしたなか、新潟市、横越町、亀田町の1市2町は、互いの合併への意識の高まりから、11月20日に任意の合併協議会である「新潟市・亀田町・横越町 合併問題協議会テンプレート:Refnestテンプレート:Refnest」を設置し協議を開始。全国的に合併への関心が高まるなか、合併について具体的なアンケート調査を行った市町村もあった[36]

周辺12市町村による協議

2002年(平成14年)5月24日、新潟市議会が政令指定都市を展望した広域合併を推進するべきとした「政令指定都市の実現を目指す決議」を可決。新潟市と近隣市町村で政令指定都市を目指して合併する機運が急速に高まり、8月2日に「新潟市・亀田町・横越町 合併問題協議会」が関係市町村との協議を一本化するために解散。さらに周辺市町村が協議会への参加を表明して、任意合併協議会である「新潟地域合併問題協議会テンプレート:Refnestテンプレート:Refnest」に発展した[36]

最終的に参加した市町村は新潟市、亀田町、横越町、豊栄市、新津市、白根市、小須戸町、西川町、味方村、潟東村、月潟村、中之口村、岩室村の、計13市町村(4市4町5村)が合併について協議を行った。

このうち潟東村と、他の協議会参加市町村とは巻町を置いて飛び地となっている岩室村は、巻町と1町2村による合併協議を進めていたものの、当時の巻町長が合併の前提条件として、両村に対して原子力発電所建設の是非を問う住民投票の実施を強く求めたことなどから協議が行き詰まり、2002年4月4日に協議打ち切りとなったため、この3町村の枠組みから離脱し新潟市との合併協議に参加することになったもの。

この間、巻町は新潟市との合併協議にも参加しなかったが、このうち新潟市赤塚地区と生活圏上一体となっている四ッ郷屋地区については、境界変更による新潟市編入の構想も浮上していた。

新津市の一時離脱

その後、新津市は2003年12月に実施された住民アンケートの結果を受け、同市議会で13市町村での法定合併協議会設置案を一旦否決したため、2004年1月6日に合併協議から一時離脱。これに伴い、残る12市町村での2005年(平成17年)3月21日の合併(新潟市への編入合併)を目指し、任意協議会から発展した形で法定合併協議会「新潟地域合併協議会テンプレート:Refnest」を2004年1月29日に設置した[36]

しかし新津市は、2004年2月に行われた市長選で合併推進派の候補が当選し、同時に行われた新潟市との合併の是非を問う住民投票でも合併が賛成多数となったのを受け、「新潟市・新津市合併協議会テンプレート:Refnestテンプレート:Refnest」(法定協議会)を2004年4月16日に設置し、法定協議に改めて合流(協議会は別だが、協議そのものは前出12市町村と同時進行)[36]

再び新潟市を含めた13市町村による協議が進められることになり、新潟市周辺の12市町村は2005年(平成17年)3月21日に新潟市と合併した。

巻町との合併

新潟市の周辺12市町村との合併協議が進む中、2004年1月に巻町では新たな町長が就任。2004年5月に18歳以上の全町民を対象に合併に関するアンケートを実施した結果、一番多かった「新潟市との合併を推進するべき」という町民の意見を反映させるべく、6月1日に新潟市長に合併協議を始めたい旨を伝えた[36]

2004年8月に、巻町で新潟市との合併是非を問う住民投票が行われ、賛成多数で巻町が新潟市との合併協議に参加することとなった。そして同年10月18日に「新潟市・巻町合併問題協議会テンプレート:Refnest」(任意合併協議会)が設置され、第1回協議が行われた[36]

この中で両市町は、合併期日については「2005年度早期」を目標とし、改正合併特例法の経過措置の適用を受けるため、2004年度末(2005年3月31日)までに県知事に合併申請を行う方向で協議を進めることを確認。2005年1月に「新潟市・巻町合併協議会テンプレート:Refnest」(法定協議会)に移行し、合併期日は同年10月10日に設定された[36]

これにより、最終的に合併する市町村は計14となった。

地名

編入された各市町村の地名は「郡市町村」と「大字」を除いた表記となり(例:西蒲原郡月潟村大字月潟→新潟市月潟。

但し、亀田地区で住居表示未実施の地区は「大字」表記を存続)、13市町村間で重複する地名については、旧市町村名や東西南北を付した表記に改められた(例:中蒲原郡亀田町四ッ興野→新潟市亀田四ッ興野、白根市大字田中→新潟市南田中)。

政令指定都市化

期間限定の市町村合併支援プランテンプレート:Refnestに従い、政令指定都市の人口要件緩和措置等を満たした新潟市は、2006年10月24日閣議で指定都市への移行が決定した(2007年4月1日に移行)[37][22]

行政区

2005年8月30日に「行政区画の編成及び区役所の位置テンプレート:Refnest」について、2006年3月28日に「新潟市の行政区の名称テンプレート:Refnest」についての答申が出され、同年12月18日に新潟市議会で可決された[37]。 区の数は8つ。名称は以下のとおり。おおよその位置関係を反映して表を分けた。左側の区が海側。

ファイル:Niigata-ku jp.jpg
新潟市の行政区
旧自治体 地区
豊栄市 北区
横越町 十二前
新潟市
東区
木戸
大形
石山
中央 中央区
沼垂
山潟
西 西区
黒埼町
巻町 四ッ郷屋
上記以外 西蒲区
西川町
岩室村
潟東村
中之口村
旧自治体 地区
横越町 十二前以外 江南区
新潟市 曽野木(南)
両川(南)
大江山(石山)
亀田町
白根市 南区
味方村
月潟村
新津市 秋葉区
小須戸町


経緯

区割り

政令指定都市移行時の区割り案については、2004年8月13日に開かれた13市町村の首長・議長連絡会で、各区の人口を10〜20万人程度として、信濃川阿賀野川、小阿賀野川などを境界線とした、7区割りを基本線とした3つの案(あくまでも試案で、この3つからのいずれかが採用されるというものではない)が示された。

関屋分水路信濃川以西の白根市を含む西蒲原地区については、複数のパターンが想定されている。これら区割り案については、同年9月上旬から各市町村で順次公表された。なお、巻町はこの段階では合併協議開始前であったため、区割り案のパターンには含まれなかった。

この3つの区割り案を叩き台とし、市民及び編入市町村民から意見を募った上で、合併協議に参加した巻町を加え、先の3案を修正したものと新たに作成した2案の、計5案による区割り意見の二次募集が2005年1月30日から同年2月25日まで行われた。

区名

区名案の募集と結果
新潟市行政区画審議会は、区の一体感・愛着・全市的整合性の3つの基本的な考え方により、2005年10月31日〜11月21日、区名案を募集した。
その結果、応募の1位は、1区:豊栄、2区:東、3区:中央、4区:亀田、5区:新津、6区:白根、7区:西、8区:巻となり、1区・4区・5区・6区・8区では旧市町村名がいずれも応募1位を占めた。なお、応募総数は14,965通あり、このうち5区(旧新津市・旧小須戸町)からの応募数が9,666通で全体の6割強を占めた。
区名案の絞り込み
新潟市行政区画審議会は、下部組織としての検討委員会を立ち上げ、検討委員の意見と地域審議会などからの意見を元に区名案の絞り込みを行ったテンプレート:Refnest
その結果、区の一体感を阻害するとの懸念から応募1位になった旧市町村名を候補とせず、方位方角及び中央についても候補としないこととして、新潟市行政区画審議会へ報告した。
区名案の最終調整と結果
新潟市行政区画審議会は、検討委員会から絞り込んだ区名案の報告と地域審議会やコミュニティークラブなどの意見を受け、区名案の最終調整を行った。この時、新潟市議会議員で構成する新潟クラブや政令指定都市調査特別委員会からは、応募の多かった旧市町村名は民意であるから区名候補に入れるべきとする意見書が提出されていた。
また、1区から8区において意見集約が図れなかった地区は5区だけで、新津を区名候補に入れて欲しいとする新津地域審議会と新津と秋葉を除外して欲しいとする小須戸地域審議会の2地域審議会だった。
結局、行政区画審議会委員による多数決により旧市町村名を候補としないこととしたが、一方で行政区画審議会委員などからの要望により検討委員会では候補としなかった方位方角・中央を区名候補に加え、意向調査する区名候補が決定した。なお、5区の区名候補には小須戸地域審議会が除外要望した秋葉が区名候補に入った。
区名意向調査と答申
新潟市行政区画審議会は、区の一体感・愛着・全市的整合性の3つの基本的な考え方により、2006年2月24日〜3月9日、区名意向調査を実施した。
応募数は34,459通(内有効33,436通)、新潟市行政区画審議会は2006年3月28日、全市的に一番応募の多かった区名候補(1区:北、2区:東、3区:中央、4区:江南、5区:秋葉、6区:南、7区:西、8区:西蒲)を新潟市行政区の区名候補として新潟市長へ答申した。
なお、5区については全市で最も多かった区名案(秋葉)と居住区で最も多かった区名案(緑)が異なっていたが、全市的な観点という理由により秋葉を答申した。また、付帯意見として区名に続き表示される町字名に旧市町村名等をつけることについて対処を求めた。新潟市行政区画審議会は2006年3月31日をもって解散した[37]
5区の名称を新津とすることを求めることについての署名活動と新潟市議会の請願採択
新潟市行政区画審議会の答申後、主に旧新津市住民による真の分権型政令市を実現させる会が5区の名称を新津とすることについて署名活動を行い、37,597名の署名(賛同者)を集め、新潟市長に陳情、新潟市議会へ請願書を提出。2006年7月3日の新潟市議会本会議においてこの請願が採択された。
なお、署名収集の方法のひとつとして、新津地域の自治会を通じて回覧板を各組(各世帯)へ廻して集めるなどの手法がとられたが、この手法については賛否両論の声が聞かれた。

地名

政令市移行に伴い、地名も一部再整理された。

市内で唯一「大字」表記を存続していた亀田地区は政令市移行とともに大字を全廃し(例:新潟市大字亀田→新潟市江南区亀田)、これによって市内の大字を冠する地名は全廃された。

また8行政区間で重複する地名は地元住民などとの協議の上、地区名や東西南北を冠したままのケース(例:新潟市亀田四ッ興野、白根四ッ興野→新潟市江南区亀田四ッ興野、南区白根四ッ興野)と、地区名や東西南北を外して編入前の地名に復したケース(例1:新潟市南田中→新潟市南区田中)(例2:新潟市豊栄美里、潟東美里→新潟市北区美里、西蒲区美里。但し西蒲区には西川地区内の通称地名として「美里」が重複して混在している。)とがある。

なお、北区では豊栄地区の東栄町(とうえいちょう)と北地区の東栄町(ひがしさかえまち)とで混同を避けるために合併時に前者に豊栄を冠したにもかかわらず、区制に伴い外してしまった為に同区内で混同が生じる恐れがある。

新潟100万都市構想

20世紀中は、政令指定都市移行に「人口100万以上、または、近い将来人口100万人を超える見込みの80万人以上の人口」が必要(参照)とみられていたため、新潟市が政令市となるため100万都市となるような合併の枠組みの提言がなされた。

2001年8月30日の市町村合併支援プラン決定により、人口要件は期間限定で緩和され、新潟市の政令市移行も実現したが、周辺自治体の財政状況など諸般の事情により、今もなお合併を模索する動きがある。

「新潟100万都市構想検討報告書テンプレート:Refnest
新潟商工会議所が市制100周年にあたる1989年(平成元年)9月にまとめた報告書。第1次新潟新都市エリアとして旧新潟市・旧豊栄市・旧亀田町・旧黒埼町・旧横越村(平成元年時点では旧横越町は村)。第2次新潟新都市エリアとして、現在の新潟市から旧岩室村を除いた地域に、聖籠町、現阿賀野市。最終新潟新都市エリアに、第2次新潟新都市エリアに現佐渡市を加えた地域を想定している。すなわち、現在の新潟市から旧岩室村を除いた地域に、聖籠町、現阿賀野市、現佐渡市を加えた地域を以って100万都市を目指す構想であった。
「緑豊かな国際商業都市を目指してテンプレート:Refnest
21世紀を前に、新潟商工会議所が2000年(平成12年)1月にまとめた提言書。政令指定都市化の際の市域の範囲は、旧新潟市・旧新津市・旧白根市・旧豊栄市・旧京ヶ瀬村・旧小須戸町・旧横越町・旧亀田町・旧西川町・旧黒埼町・旧味方村・聖籠町を想定しており、「新潟100万都市構想検討報告書」と比べて範囲が縮小されている。
平成の大合併中
平成の大合併における旧新潟市と周辺市町村の合併構想の際、旧北蒲原郡水原町安田町京ヶ瀬村笹神村側(現阿賀野市)にも政令指定都市を目指して新潟市への編入合併案が浮上していた。北蒲原郡南部郷合併協議会が発行していた「北蒲原郡南部郷合併協議会だより」において、2001年(平成13年)3月に政令指定都市を目指す「第4次新潟地域広域市町村圏計画」を明記している[38]
将来構想
阿賀野市の編入[39]や田上町の編入[40]テンプレート:Refnestも構想されている。

その他

合併記念歌

この2005年の合併にあたり、市と各合併協議会では記念歌の制作を決定。新潟市が制作費の一部2,000万円を拠出し、新発田市出身のたかたかし作詞、新潟市に在住歴のある遠藤実作曲を手懸け、新潟市出身の小林幸子が歌うテーマソングは『越佐海峡』の仮題で制作が進められていた。

しかし10月23日に発生した新潟県中越地震を受け、タイトルとアレンジを急遽変更、歌詞も被災地への激励を込めたものに一部を手直しした『越後絶唱』が完成した。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ 注釈 テンプレート:Reflist 出典 テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

外部リンク

テンプレート:Pref-stub

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 新潟日報事業2010
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 角川地名15
  3. 温古(上)、p.131-132
  4. 4.0 4.1 新潟市通1
  5. 5.0 5.1 5.2 新潟市通2
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 新潟市通3、p.75
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 あゆみ、p.6 PDF
  8. 8.0 8.1 新潟市通3、p.230
  9. 新潟市通3、p.230-231
  10. 新潟市通3、p.231
  11. 11.0 11.1 11.2 新潟市通3、p.280
  12. 新潟市通3、p.281
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 新潟市通4、p.12
  14. 新潟市通4、p.12-13
  15. 15.0 15.1 15.2 新潟市通4、p.13
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 新潟市通4、p.14
  17. 新潟市通4、p.14-15
  18. 18.0 18.1 新潟市通4、p.15
  19. 新潟市通4、p.378
  20. 20.0 20.1 20.2 20.3 新潟市通4、p.380
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 21.6 新潟市通4、p.381
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 あゆみ、p.7 PDF
  23. 新潟市通5
  24. 新潟市通5、p.116-117
  25. 25.0 25.1 25.2 25.3 新潟市通5、p.117
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 26.4 26.5 新潟市通5、p.118
  27. 新潟市通5、p.118-119
  28. 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 28.5 28.6 新潟市通5、p.119
  29. 新潟市通5、p.119-120
  30. 新潟市通5、p.120
  31. 31.0 31.1 31.2 新潟市通5、p.189
  32. 32.00 32.01 32.02 32.03 32.04 32.05 32.06 32.07 32.08 32.09 32.10 32.11 新潟市通5、p.190
  33. 新潟市通5、p.190-191
  34. 34.0 34.1 新潟市通5、p.191
  35. 35.0 35.1 35.2 35.3 黒埼合併
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 36.6 36.7 36.8 広域合併
  37. 37.0 37.1 37.2 政令市
  38. 阿賀野市の将来
  39. 合併協議会
  40. 読売2006