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大沢啓二

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テンプレート:画像提供依頼 テンプレート:Infobox baseball player 大沢 啓二(おおさわ けいじ、本名:大沢 昭(おおさわ あきら)、1932年3月14日 - 2010年10月7日)は、神奈川県藤沢市出身[1]の元プロ野球選手(外野手)・監督・野球解説者。

「大澤」と表記されることもある。旧名は大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。愛称は「親分」あるいは「大沢親分」「大沢の親分」。

経歴

学生時代

学生時代は悪童で鳴らし、神奈川県立平塚工業学校(現:神奈川県立平塚工科高等学校)に入学するも、地元で起こした暴力事件が原因で中退[2]。平塚工業学校を中退後、兄の大沢清の斡旋で清の母校である神奈川県立商工高等学校に編入し、野球を始める。「野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れない」と後年語っている[3]。神奈川商工2年生時に第32回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、2回戦で敗退。

3年生時のテンプレート:By、全国高等学校野球選手権神奈川大会の試合で、自信を持って投じたストライクをボールと判定されたり、確実にセーフだと思ったタッチプレーを二度もアウトにされるなどの球審の判定に不服を覚える。試合は延長戦となり、最後はフォアボールの押し出しでサヨナラ負けしてしまった。試合終了後、大沢は球場のトイレで偶然その審判と遭遇し、他の選手1名とともに蹴りつけてしまう。この結果、神奈川商工高は1年間の出場停止処分を受けた。

後日、大沢が蹴りつけた審判が自宅を訪れ、自分が立教大学硬式野球部関係者であると名乗った上で、「君のような野球がうまくて元気のある選手が立教大学には必要なんだ」とスカウトした[4]。これを受けて、野球部推薦で立教大学文学部へ進学。受験勉強はまったくしておらず、しかも試験当日、雪による電車の遅延のために2科目を欠席。残る2科目は白紙の答案ではまずかろうと英語は名前を書いたほかは前の問題文を次の回答欄に書き、社会では空欄に日本地図を書くということを行ったと述べている[5]。

1年生の春のリーグ戦から出場したが、直後に「出身高校が1年間の出場停止処分を受けているから」という理由で半年間出場停止となった[6]。東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。2学年下の後輩に、後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾がいた。

当時、立教大学野球部は砂押邦信が監督を務めていた。大沢が4年生のとき、あまりの猛練習に下級生から「監督の辞任か自分たちの退部」を求める訴えが上がり、大沢は部員の署名を集めて砂押に掛け合ったが、拒否される。やがて総長やOBまで巻き込んだ話に発展し、最終的に砂押は退任した。大沢は後に「お互い若かった」と述べている[7]。

この立教大時代に「レフトゴロ」を成立させたことがある。前位の走者の封殺でなく、打者走者を一塁到達前に刺したことによるレフトゴロは非常に珍しい[8]。

プロ野球・現役時代

テンプレート:Byに南海ホークスに入団。監督の鶴岡一人から勧誘の時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされる。南海への入団には長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められており、南海は大沢を通じて長嶋に当時の大学初任給をはるかに超える額を栄養費として渡すことになる[9]。しかし、栄養費としてではなく善意のおごりという形をとっていたため、後に事態を把握した長嶋は反発。長嶋は最終的に読売ジャイアンツに入団(支給された栄養費の全額も返金)、一方長嶋から誘われて南海入りを決めた杉浦は、鶴岡への仁義を通すとしてそのまま南海へ入団した。大沢はこの事件以降長年に渡り長嶋を裏切り者として敵視した。

プロ選手としては頭脳的な守備で鳴らし、守りが上手く1年目でオールスターに出場し[10]、とりわけ1959年の日本シリーズ第3戦では、4連投4連勝の杉浦と共に日本一に貢献した。打者の打球傾向によって守備位置を変えるという、現在では当たり前になっているプレーを行い、要所要所で見せた好守備によって巨人の反撃を断ち、チームの4連勝に大きく貢献した。現存している写真を確認すると20m以上、守備位置を移動している[11]。シリーズ後、滅多なことでは選手をほめない鶴岡が「大沢、本当によくやってくれた」と直々に労い、また西鉄ライオンズ監督の三原脩はこのシリーズの総括として、「MVPの杉浦は副賞として自動車を与えられたが、大沢にも小型の自動車を与えるべき」と語っている[12]。

また、ライト前ヒットの際に、ボールを拾ってからフェンスに向かって走り、二塁でランナーを補殺するトリックプレーを見せたこともある[13]。

テンプレート:Byに東京オリオンズに移籍し、同年限りで現役引退。移籍の理由について、大沢は著書でテンプレート:Byのオフに球団から突如スカウトになるよう指示されたためとし、その背景には10年選手制度にかかる前に放出する意図があったからと述べている[14]。大沢は移籍の挨拶に鶴岡の自宅に出向いた際に、メジャーリーグへの移籍の相談に先に来ていた村上雅則に、「こんな冷たいチームに義理立てする必要はない」と言って鶴岡と口論になったという[15]。一方、当時オリオンズのスカウト部長だった青木一三は、10年選手制度が移籍の原因であることを認めた上で、鶴岡が自ら青木に「獲ってやってくれ」という依頼をしてきたと著書で記している[16]。

プロ野球・監督時代

引退後は、テンプレート:Byからテンプレート:Byまで東京・ロッテ打撃コーチ、テンプレート:Byはロッテ二軍監督を務め同年イースタン・リーグ優勝。大沢が2軍監督時代に指導した得津高宏は「現役の時大沢さんはホームランバッターじゃなかっただけに、アベレージバッターを育てるのが上手いんです。だから僕はアベレージバッターになったんです。それでいい方に変わったんです。」と語っている[17]。テンプレート:By7月24日に一軍監督の濃人渉と交代する形で監督に就任。最終的に2位となった大沢の手腕は球団に評価され、シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶものの、テンプレート:Byは5位に低迷し、シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇される。このとき、ロッテのオーナーを退任し、太平洋クラブライオンズのオーナーに転じた中村長芳から「将来太平洋の監督に迎える」という内諾を得ていたという[18]。

テンプレート:Byからテンプレート:Byまでラジオ関東(現:RFラジオ日本)の解説者を務めた。

1975年(昭和50年)のオフに、日本ハムファイターズ球団社長の三原脩から監督就任の要請を受ける。この要請は三原がロッテ一軍、二軍監督時代の采配を見て、共感したからであると言われているが、三原の逝去により確認はできていない。大沢によると、三原からは「チームを強くする適任者」といった以上の説明はなかったという[19]。中村との約束の件もあり、大沢はオーナーの大社義規と面談、その場で大社が中村に断りの電話を入れて就任を受諾した。

監督就任にあたって背番号は86に決まる。この背番号は、監督就任前に解説者を務めていたラジオ関東の社員が行った「大沢さんを戦場に送る会」と題した送別会の席で、当時アナウンサーだった島碩弥が「日本ハムの監督だからハムをもじって86番がいい」と勧めたのがきっかけだという。因みに日本ハムで86番は、現在までに大沢以外に着用されていない。

テンプレート:Byからテンプレート:Byまで監督を務め、テンプレート:Byには19年ぶりのリーグ優勝を果たす。阪急ブレーブスが圧倒的に強かったころ、何とか勝つために後楽園球場の三塁側ベンチに盗聴マイクを仕込んだが、相手の作戦ばかり気にして思ったような効果が得られず、1試合でやめたと著書に記している[20]。また、「引き分けでも優勝」だったテンプレート:By後期最終戦(対近鉄バファローズ戦)のときには反発力の異なる2種類の試合球を用意し、近鉄の攻撃のときに反発力の低いボールが出てくるよう画策したことも明かしている[21]。

チームの体質改善のため、中心選手をトレードに出すことも何度か敢行した。ロッテ監督時代には「打力だけでは日本一にはなれない」と江藤愼一、榎本喜八、アルト・ロペスを放出して野村収、村上公康、外山義明を獲得した。日本ハム監督就任時には球団社長の三原脩の意向もあり、張本勲と巨人の高橋一三、富田勝の1対2のトレードを成立させている。これらのケースでは出す選手を先に決めてトレードを成立させたが、広島東洋カープから江夏豊を獲得した際には、投手の中心となることを期待していた高橋直樹を交換条件に出され「高橋だけは出せません」と粘ったものの、広島側が譲らなかったため、迷った末にトレードを決めたという[22][23][24][25]。

テンプレート:By、西武ライオンズ監督に広岡達朗が就任し、選手の食事療法まで踏み込む「超管理野球」を標榜すると「草ばっかり食ってヤギさんじゃあるめえし」と噛みつきマスメディアの話題を呼んだ[26][27][28][29]。当時はまだマイナー扱いされていたパ・リーグの人気盛り上げに一役買った功績は大きい[28][29][27]。同年の西武ライオンズとのプレーオフ第1戦では、当時右手指の故障中であった工藤幹夫を強行登板させた。これが工藤の選手生命を縮めたとも言われている。大沢は、医者から「プレーオフには間に合う」と聞いて、密かに練習をさせ、周囲を欺いたと記している[30]。

テンプレート:Byより日本ハム常務に就任するが、監督の植村義信が6月に辞任したため、植村を推薦した責任を取る形で現場復帰しシーズン終了まで指揮をとった。

1985年(昭和60年)から1992年(平成4年)までは日本ハム球団常務を務める。1986年(昭和61年)頃、『フライデー』、『フォーカス』(以下「FF」)などの写真週刊誌がプロ野球選手を含む有名人のプライベートを掲載し、社会問題にもなったが、日本ハムの選手が登場しないのを嘆き、「『FF』に載れ!」(「FF」に狙われるような選手になれ、の意で)と選手達を叱ったことがある。同じく球団常務時代に日本ハムの試合を観戦に東京ドームに訪れた際、当時プロ野球ニュースのキャスターだった中井美穂[31]から、「常務は野球のルールをご存じなんですか?」と聞かれ笑いが止まらなかったと後日語っている。

テンプレート:Byオフ日本ハムの監督選びが難航する[32]。大沢が推薦した上田利治[33]は本人も積極的だったがフロントが好意を示さず、次に要請した王貞治には固辞された[32]。人気や知名度を優先するフロントに憤慨した大沢は、「人気だけだったら、宮沢りえにやらせろ」とまで言ったが、結局、時間切れで本人が引き受ける羽目になったと述べている[32]。この結果、テンプレート:Byからテンプレート:Byまで再び日本ハムの監督を務めた。背番号は前回と同じ86に決まった。再任した際、広瀬哲朗はドラフト1位入団ながら、それまでレギュラーとしての活躍がさほどなく、守備要員に甘んじていた。しかし大沢が、「お前のような闘志みなぎる人間がベンチウォーマーではけしからん。お前がグイグイチームを引っ張るようになれ」と大沢の指名で主将に就任。田中幸雄がケガで外野手にコンバートされると、遊撃手のポジションを奪ってレギュラーに定着し、オールスターゲームに出場するなど、飛躍することとなった。

1993年シーズンは西武と激しいデッドヒートを演じ結果2位に敗れたものの、大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句はこの年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。ロッテ戦で伊良部秀輝に抑えられた試合後に「幕張の伊良部クラゲに刺されちまった」という有名なコメントを残したのもこの年である[34]。

テンプレート:Byは最下位に終わり、最終戦で試合後ファンの前で土下座して謝った[32]。

監督としての成績は通算で1547試合で725勝723敗99引き分け、勝率5割1厘。「勝ち越して監督生活を終われる人間はそう多くない。名将なんておこがましいが、貯金2か。ちょうどいいんじゃねぇか」と自身の監督成績を振り返った[32] 。「親分」の愛称で親しまれ、ユーモアあふれる言動で人気を集めた名物監督でファンからも慕われた[1]。

退場の多さで有名で[1]、通算退場回数は7回[35]とタフィ・ローズ(14回)、マーティ・ブラウン(12回)、金田正一(8回)に次ぐ記録を持ち、そのすべてが監督時代である。監督としての退場回数7回は、テンプレート:By8月27日にブラウンに抜かれるまでプロ野球最多記録であった。『サンデーモーニング』内で退場の話題が出ると、「暴力反対」と唱えたり、退場の通算回数ランクが書かれたフリップが提示されるなどと毎回笑いを呼んでいた。また退場の記録を抜かれた際は必ずその話題が出た[36]。

退場でよく知られているのは、1976年6月17日の対阪急戦でのもの。竹村一義が打者にビーンボールを投げ、一塁コーチスボックスからマウンドに駆け寄り、「てめぇ、今度やったら許さねえぞ!!」と威嚇したが、その後再びビーンボールを投げたので、激怒して竹村を殴って退場になった[37]。竹村を殴った瞬間は報道写真に捉えられた[38]。10日間の出場停止と罰金10万円の処分が科されたが、出場停止の間に代理監督を複数のコーチにさせて、コーチの指揮能力をベンチからチェックしていた。

またこれは退場事件には至らなかったが、オリオンズの監督時代、当時ホークスのエースだった江本孟紀がいきなりオリオンズの先頭打者にデッドボールを食らわせたことに激怒、江本いわく「パットン戦車のような勢いで」大沢がマウンドにやってきて「おい、若僧、うちのものにいきなりぶつけるとはどういう料簡してやがるんだ、この野郎!!」と猛然と怒鳴りつけた。江本も負けじと「先頭バッターにわざわざぶつけるアホがどこにいるんや、このボケ!!」と激しくやり返し、あやうく暴力乱闘というところ、キャッチャー兼監督の野村が間に入って事なきを得た。江本と大沢はこれ以降、大沢の死に至るまで親しくなり、江本が舌禍事件で現役を引退したときも「エモ、もったいないぞ。もっと野球せえや」と現役続行をアドバイスしたという。

スポーツ番組でペナントレース開幕前に全12球団の監督が総出演してチームの仕上がり具合を話すという企画で、当時常勝を誇っていた西武ライオンズ監督の森祇晶が「いやぁ〜、ウチなんか桜に例えたらまだまだ三分咲きですよ」と発言したところ、大沢は激怒し「どうしておめぇは本音で話ができねぇんだ!!」と森を一喝した。このほか、1993年(平成5年)には大沢の発言や行動に対し、西武のコーチが揚げ足を取るような発言をしたため、大沢は「西武のコーチは子ダヌキに海坊主、森は岐阜の貯金箱だ(森は岐阜県岐阜市出身であり、金に細かいことで評判であった)」と言い放った。もっとも大沢は森とは親しく、話題作りもあってあえてこうした発言をしたという[39][40]。ライオンズとの優勝争いに敗れて2位に終った1993年、大沢は日本シリーズを控えたライオンズの激励に練習現場にあらわれ「いやー、1勝でもできればいいと思っていますよ」と言う森に対して大沢は「パリーグの代表としてシリーズに行くんだから、そんなケチなこと言わず必ず優勝しろよな。頑張るんだぞ」と優しく言葉を返し、森は大沢の言葉に「大沢さんらしい。ありがとうございます」と苦笑しつつ恐縮していた。

晩年

テンプレート:Byよりフリーでのプロ野球評論家、そのかたわら日本プロ野球OBクラブ理事長(2009年(平成21年)3月まで。4月からは名誉理事長に就任)、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、「モルツ球団」監督、総監督、正力松太郎賞選考委員などとして活躍していた。 野球解説者として歯に衣着せぬ発言で人気を博した[1]。

また、TBS系『サンデーモーニング』内のコーナー「週刊御意見番」に張本勲と共にレギュラー出演していた。さらに、ニッポン放送「おはよう! ニッポン全国消防団」(2006年(平成18年)4月スタート)では、消防応援団長の肩書でゲスト出演していた。 2006年(平成18年)日本ハムファイターズ25年振りパ・リーグ優勝時に、サンデーモーニング内「スポーツご意見番」登場時、いつも歌を歌っての登場だが、その際『♪ぼーくーらーのー仲間だー やったぜファイターズ~』と「それゆけぼくらのファイターズ」の歌詞を少々アレンジして歌っての登場であった。関口宏が「その曲は?」の問いに「ファイターズの曲よ!!」と返答。オールドファンにはたまらない選曲であった。 2009年(平成21年)10月から胆嚢癌を発症しており、番組などには病をおして出演していた。2010年(平成22年)9月26日と10月3日と2回連続で『サンデーモーニング』に出演せず、9月26日にはその理由に触れなかったが、10月3日に本人からの手紙を関口宏が紹介、その中で「体調不良」を明らかにした。10月7日午前7時25分、胆嚢癌のため逝去[41]。テンプレート:没年齢。戒名は將導院球岳日昭大居士[42]。

大沢が死去してから約1・2時間後にフジテレビ系『情報プレゼンター とくダネ!』に『サンデーモーニング』で共演した張本勲が生電話出演し、「悔しいですよ。元気で過ごしてもらいたかった」「信じられない。先月まではお元気だった。多少体の具合が悪いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。悲しいより悔しい」と胸の内を明かしていた[43]。また、孫の大沢あかねは「曾孫を見せることができたのが最後のおじいちゃん孝行だったと信じたいです」[44]、立教大学の後輩でもあった『サンデーモーニング』の司会者・関口宏は「本当に野球がお好きだったことは、おそばにいてひしひしと感じとっておりました。本当に本当にご苦労さまでした。静かに静かにお休み下さい」とコメントした[45]。なお、『サンデーモーニング』の「週刊御意見番」は今後は張本が単独で出演する形で継続すると報じられたが、10月17日放送分からは張本に加えて週替わりでゲストコメンテーター(土橋正幸、高田繁など。野球以外のスポーツ出身者の場合も多い)を1名招いて放送している。

大沢啓二の通夜は10月13日、葬儀は翌14日に東京都港区芝公園の増上寺で行われ、「サンデーモーニング」で共演した関口、張本、親交の深かった王貞治、「サンデーモーニング」の裏番組の司会者である徳光和夫らが弔問に訪れた。日本ハムオーナーの大社啓二、関口、張本の3名が弔辞を読んだ。また、棺には大沢が臨終の瞬間まで握っていた硬式ボールなどが納められた。出棺の際、葬儀委員長を務めた黒江透修の音頭取りによる「あっぱれ三唱」が行われた。通夜には孫の大沢あかねが夫の劇団ひとりと共に参列した。遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。

2010年(平成22年)10月9日、2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズファーストステージの埼玉西武ライオンズ 対 千葉ロッテマリーンズ第1回戦(西武ドーム)の試合開始前に、大沢の逝去を悼み、両軍選手並びにスタジアムの観衆による黙祷が行われた[46]。

親族

実兄の大沢清、大沢紀三男は元プロ野球選手。モデル兼タレントの大沢あかねは孫で、前妻との間に生まれた長女の娘である。

孫の大沢あかねに電話を掛けた際、留守電を知らせるメッセージを孫の部屋に侵入した不審者と勘違いしてしまう。留守電には大沢の怒った声が録音されており、孫がビックリしたと語っている[47]。2010年3月に大沢あかねが妊娠を発表、9月8日にあかねが啓二のひ孫となる女児を出産した[48]。

人物像

サングラスを掛けた貫禄のある容貌、親分肌の性格とべらんめぇ口調から、「親分」のニックネームで親しまれた。ホテルで、周囲が「親分、親分」と呼びかけているのを聞いたスタッフがヤクザの親分と間違えて戦々恐々としていたことがある、と本人は講演などで語っている。プロ野球界で「親分」というニックネームは、現役時代の監督である鶴岡一人が先にいるが、大沢は著書では鶴岡には「さん」と記し、「鶴岡親分」とは書いていない。現役時代のあだ名は、そのいかつい容貌に似合わない「ポッポちゃん」。命名の由来は南海のハワイキャンプ時に、O脚の鳩がふらふら歩いているのを見て、選手の誰かが「大沢にそっくりや」と言った事による[49]。

江夏獲得の際には、単身広島の松田耕平オーナー宅に乗り込み、松田と同席した古葉竹織を前に、強くない酒をグイグイ飲んで熱弁を振るいトレードを実現させた。広島カープとしては、打診が来ている数球団の条件を聞いた上で結論を出す腹づもりであったが、あまりの大沢の熱意に松田オーナーが「負けました。決めましょう」とその場で交渉が成立したという[23][24][25]。江夏はファイターズ入団の頃の大沢について「道路工事現場監督みたいな雰囲気で、選手をボカボカ殴りまくっていてびっくりした」という。しかし江夏は大沢の親分肌が非常に気性にあったようで、以後、大沢の死に至るまで大沢を尊敬することになる。大沢も江夏を「うちの勝ちパターンは江夏が出てくるようになる試合のこと」といい強く信頼し、江夏が在籍した三年間のファイターズは常勝チームであった。

テレビに登場する際は和服姿が圧倒的に多かったが、野球解説などの時はスーツなどの洋服を着用することもあった。また、大東建託のCMには洋服(クラシックタイプのゴルフウェア)を着て出演したこともある。南海でルーキーだったシーズンにはカネボウ化粧品のポスターにモデルとして起用されたことがある。

嫌いな食べ物はなかった(チョコレート系の食べ物、特にエクレアとココアが大好物)。動物好きで、犬と猫を飼っていた。

引退後も、マウンドからノーバウンドで捕手めがけて投球することができた。ベースボール・チャレンジ・リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの始球式で、群馬県知事の大沢正明とのダブル大沢での始球式を行ったが、大沢知事がノーバウンドだったのに対し、自身はワンバウンドしてしまった。これに対し、啓二は『サンデーモーニング』の中で大沢知事に「あっぱれ」を、自らに「喝」を与えている。

東京六大学野球の始球式でも投げたことがあり、見事にノーバウンドでキャッチャーの位置まで投球した。しかしサンデーモーニングの中で張本に「始球式なのに着物で出てくることはないでしょ」と言う理由で「喝」を与えられた。

メジャーリーグが大嫌いであったが、共演している張本勲ほど露骨ではなかった(『サンデーモーニング』より)。日本ハムが北海道に本拠地を移転してからは、北海道のテレビ番組にたびたびゲスト出演し、札幌ドームでの日本ハム主催イベントにも度々出席していた。

野球以外のスポーツにも通じており、特にサッカーの中村俊輔、テニスのマリア・シャラポワのファンでもあった。競艇に関しての知識に関しては球界随一で、「球界ナンバーワンの競艇通」としても知られる。時折競艇場などで見かけられた。

1985年(昭和60年)、フロント入りした頃に「頑固親父の目に涙」という曲をリリースした。また、1998年(平成10年)には舘ひろし主演のNHK金曜時代劇『物書同心いねむり紋蔵』で舘の演じる藤木紋蔵の上司(町奉行)として出演している。

人間関係

立教大の大先輩である西本幸雄には全く頭が上がらなかった。これは単に西本の方が年上であるというだけでなく、西本が当時から和歌山県下トップレベルの進学校で鳴らした旧制和歌山中学から野球の実力のみならず学力で立教大に入学したのに対し、大沢は野球の実力や学力とは関係なくスカウトを受けて、野球部推薦で入学したことも関係している。

野村克也とは現役時代からそりが合わず、野村が先に南海に入団したにもかかわらず、大沢のほうが年上でありなおかつ大学卒であったためか、野村を呼び捨てにしていた(なお、現在は入団年数が長くても年上の人物には「さん」付けする傾向がある。野村は現役時代、その件などで複雑な思いをしたと『ダウンタウンDX』で語っている)。引退後も、「鶴岡さんがやめてからの南海の監督は監督の器じゃない人が務めていた」などと野村に批判的な主張をしていた[50]。特に鶴岡の葬儀・告別式に野村が参列しなかったことに対しては激怒した。
上記のエピソードから「そりが合わない」と言われる大沢と野村だが、野村は「人間・大沢啓二」については「私は大沢のうわべだけ見て嫌いになる人はいても、中身を知って嫌いになる人はいないと思っている」[49]とも述べており、人間的に相容れぬ間柄ではないようである。実際に大沢は、現役時代の1963年に野村が当時のシーズン最多本塁打をマークした際、アウトコース低めの完全なボール球をバックスクリーンに運んだ打撃術を絶賛し、「あの時ほど野村と一緒にプレーできることを幸せに思ったことはなかった」と記している[51]。また、野村はヤクルト監督時代に日本ハムから角盈男を獲得しているが、その際には当時日本ハム球団常務だった大沢に直接連絡してトレードを申し入れている。

広瀬叔功は著書の中で「大沢氏とは仲良くさせてもらった。若い頃から、典型的な親分肌。後年、テレビで「喝!」とか「あっぱれ」とかやっていたが、あの雰囲気は当時から漂っていた。一緒に飲み歩くと、後輩の私には絶対に勘定を払わせなかった。私の方が給料が高くなってからも、大沢氏には100%おごってもらった。プロの掟だと思って、私も後輩に飲み屋の勘定を払わせたことは一度もない。ある意味、プロ野球選手のプライドというか、誇り高い生き方を教えてもらった先輩だったと思っている」と記している[52]。

2004年のプロ野球再編問題の際、『サンデーモーニング』で流されたスポーツライター・玉木正之のVTRのコメントに「野球(の現場)を知らん奴が何を言うか」と激昂したことがある。大沢は「玉木、出てこい」とも言ったが、その後番組に玉木を呼ぶこともなく、うやむやとなった[53]。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 南海 145 439 386 40 100 11 2 4 127 30 18 12 15 3 34 1 1 56 5 .259 .318 .329 .647
テンプレート:By2 107 335 296 36 73 9 2 4 98 22 4 2 7 2 30 0 0 40 10 .247 .314 .331 .645
テンプレート:By2 116 325 290 28 79 10 3 1 98 27 7 5 1 4 28 1 2 45 8 .272 .336 .338 .674
テンプレート:By2 107 260 242 18 59 6 1 0 67 23 4 4 5 1 11 1 1 23 12 .244 .278 .277 .565
テンプレート:By2 110 275 251 21 65 10 1 4 89 25 2 5 2 1 20 0 1 41 9 .259 .315 .355 .670
テンプレート:By2 110 209 190 18 31 5 0 1 39 19 2 1 4 1 13 2 1 30 3 .163 .220 .205 .425
テンプレート:By2 74 193 170 20 42 8 0 0 50 17 0 3 13 2 8 0 0 26 4 .247 .278 .294 .572
テンプレート:By2 90 123 106 13 25 2 0 1 30 9 1 0 5 0 11 0 1 14 0 .236 .314 .283 .597
テンプレート:By2 64 83 73 5 14 0 1 0 16 9 0 0 5 1 4 0 0 14 0 .192 .231 .219 .450
テンプレート:By2 東京 65 79 71 3 13 3 0 2 22 10 0 0 0 3 5 0 0 12 1 .183 .228 .310 .538
通算:10年 988 2321 2075 202 501 64 10 17 636 191 38 32 57 18 164 5 7 301 52 .241 .297 .307 .603

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
テンプレート:By ロッテ 2位 130 80 46 4 .635 3.5 193 .270 3.77 39歳
テンプレート:By 5位 130 59 68 3 .465 20.5 148 .264 4.54 40歳
テンプレート:By 日本ハム 5位 130 52 67 11 .432 4位・5位 107 .258 3.72 44歳
テンプレート:By 5位 130 58 61 11 .487 4位・4位 113 .245 3.36 45歳
テンプレート:By 3位 130 55 63 12 .466 3位・4位 131 .264 3.98 46歳
テンプレート:By 3位 130 63 60 7 .512 3位・4位 131 .266 4.09 47歳
テンプレート:By 3位 130 66 53 11 .555 2位・2位 167 .264 3.61 48歳
テンプレート:By 1位 130 68 54 8 .557 4位・1位 126 .276 3.81 49歳
テンプレート:By 2位 130 67 52 11 .563 4位・1位 127 .266 3.63 50歳
テンプレート:By 3位 130 64 59 7 .520 20.5 153 .275 3.82 51歳
テンプレート:By 6位 130 44 73 13 .376 29.5 144 .259 4.98 52歳
テンプレート:By 2位 130 71 52 7 .577 1.0 106 .259 3.37 61歳
テンプレート:By 6位 130 46 79 5 .368 28.5 101 .252 4.62 62歳
通算:13年 1547 725 723 99 .501 Aクラス8回、Bクラス4回
※1 1971年から1996年までは130試合制
※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位・下段後期順位を表示
※3 1984年はシーズン途中から終了まで61試合の指揮。21勝36敗4分、勝率.368。
※4 通算成績は実際に大沢が指揮を執った試合での成績

記録

背番号

  • 15 (1956年 - 1964年)
  • 26 (1965年)
  • 57 (1967年 - 1968年)
  • 52 (1969年 - 1972年)
  • 86 (1976年 - 1984年、1993年 - 1994年)

登録名

  • 大沢 昌芳 (おおさわ まさよし、1956年 - 1961年)
  • 大沢 啓二 (おおさわ けいじ、1962年 - 1983年、1984年、1993年 - 1994年)

関連情報

出演

テレビ

ほか

ラジオ
CM

など

著書

  • 『男の華』(スタジオ・シップ,1994年)ISBN 4883152901
  • 『「人たらし」の管理術 : どんな部下でも動かせる<オレ流>心のつかみ方』(徳間書店,1996年)ISBN 4198605491
  • 『球道無頼 : こんな野球をやってきた』(集英社,1996年)ISBN 4087802205
  • 『大沢親分のちまちま言うな上司! : この肚のすえ方を持っているか』(青春出版社,1996年)ISBN 4413070380
  • 『できるヤツの和忍断 : 大沢親分のビジネス渡世哲学』(双葉社,2001年)ISBN 4575292443
  • 『OBたちの挑戦X』(マガジンハウス,2001年)ISBN 4838713525
  • しいやみつのり原作・マンガ,大沢啓二監修『マンガ野球入門 : めざせレギュラー!.1(ピッチング編)』 (山海堂,2004年)ISBN 4381079523
  • 寺島敬治原作・マンガ,大沢啓二監修『マンガ野球入門 : めざせレギュラー!.2(バッティング&フィールディング編)』(山海堂,2004年)ISBN 4381079531

出典・脚注

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関連項目

テンプレート:Navboxes テンプレート:パシフィック・リーグ優勝監督

  1. ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 NHKアーカイブス NHK映像ファイル あの人に会いたい
  2. ↑ 大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)、P14。
  3. ↑ 職業野球人・大沢啓二24.二人の兄スポニチアネックス
  4. ↑ 『球道無頼』P23。
  5. ↑ 『球道無頼』P24 - 25
  6. ↑ 『球道無頼』P24。これは明治大学監督の島岡吉郎の指摘によるものだという。
  7. ↑ 『球道無頼』P34。砂押とは後に和解した。
  8. ↑ 2006年8月27日の『サンデーモーニング』では、メジャーリーグで起きたレフトゴロの話題には「喝」を入れていた。
  9. ↑ 大沢によると、初任給8,000円の時代に2万円を渡していた(『球道無頼』P38)。
  10. ↑ 広瀬叔功著、南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団) 、ベースボールマガジン社、2014年、p48
  11. ↑ この守備位置変更については、スコアラーの尾張久次が巨人を分析した「尾張メモ」の存在が指摘されることがあるが、大沢は「メモの内容も知らなかった」として否定し、自分の勘で動いたとしている(『球道無頼』P80)。また、後に公開されたメモの内容と大沢の守備を照合して、メモとは異なる判断を下していたことも明らかにされている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモスポニチアネックス)
  12. ↑ 職業野球人・大沢啓二7.元祖親分と魔術師が認めたスーパーサブスポニチアネックス
  13. ↑ 『球道無頼』P84。
  14. ↑ 『球道無頼』P90。
  15. ↑ 『球道無頼』P91 - 92。
  16. ↑ 青木一三『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P105 - 106。
  17. ↑ 『野球小僧 12月号 2011』白夜書房、p.174
  18. ↑ 『球道無頼』P140。
  19. ↑ 『球道無頼』P140 - 142。
  20. ↑ 『球道無頼』P172 - 174。
  21. ↑ 『球道無頼』P153 - 154。この作戦は、近鉄の選手がファウルで粘っている間に反発力の高いボールが出てきたため、失敗に終わったという。試合に敗れた日本ハムは後期優勝を逃した。
  22. ↑ 『球道無頼』P157 - 158。
  23. ↑ 23.0 23.1 大沢啓二『男の華』(スタジオ・シップ、1994年)、P155-157。
  24. ↑ 24.0 24.1 大沢 啓二|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
  25. ↑ 25.0 25.1 “優勝請負人”江夏、東京へ エースと守護神のトレード スポニチアネックス
  26. ↑ テンプレート:Cite news
  27. ↑ 27.0 27.1 大沢元監督死去:「喝」もう聞けない…「親分」悼む声次々 - 毎日jp
  28. ↑ 28.0 28.1 球界因縁のライバル(17) 大沢VS広岡(リアルライブ) - livedoor スポーツ
  29. ↑ 29.0 29.1 パ盛り上げた大沢親分の功績 時代先取り地元密着型で成功
  30. ↑ 『球道無頼』P183 - 184。
  31. ↑ 当時、フジテレビアナウンサー。
  32. ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 テンプレート:Citeweb
  33. ↑ 皮肉にも、その上田は1994年オフに退任した大沢の後任として日本ハムの監督に就任することになる。
  34. ↑ 大沢親分、伊良部に“刺された”「ドームにもクラゲが…」
  35. ↑ 【5月29日】1994年(平6)“親分”大沢監督 7度目の退場! 羽交い絞めされてもキック! 日めくりプロ野球 スポーツニッポン 2009年5月
  36. ↑ これら球審に対する激しい抗議や、退場処分を辞さない行動は選手を奮起させるためワザと大げさに行っていたものだという。勇者のスタジアムで広瀬と共演した際、退場処分を受けた直後は相当激高していたが、ベンチに引き揚げた途端冷静になり「こんなもんで良いか?」と笑顔で問いかけてきた様子を広瀬から暴露され、「本音を言うなよ」と照れながら答えていた。
  37. ↑ 現在では危険球を2度投じた場合は投手の方が即時退場となるが、当時はまだこのルールがなかった。
  38. ↑ 2度目は許さねぇ 大沢啓二監督 竹村一義投手ボコボコに
  39. ↑ 『球道無頼』P233 - 236。
  40. ↑ これを示すかのように、テレビ朝日系列で放送された1994年のオールスターゲーム第1戦(西武)では両軍ベンチにカメラが入っていたが、全パ側ベンチの中継では森と大沢が親しげに談笑する姿が目立っていた。
  41. ↑ 元日本ハム監督の大沢啓二さんが死去 産経新聞 2010年10月7日閲覧
  42. ↑ 大沢親分の通夜に1200人…長嶋さん「面白く、いい先輩」 スポニチアネックス 2010年10月14日閲覧
  43. ↑ 大沢親分死去 共演の張本勲氏「悲しいより、悔しい」、MSN産経ニュース、2010年10月7日付、同日閲覧。
  44. ↑ 大沢あかね「ひ孫を見せることができたのが最後の孝行」、Sponichi Annex、2010年10月7日付、同日閲覧。
  45. ↑ 関口宏、張本勲氏が、大沢親分を追悼、デイリースポーツonline、2010年10月7日付、同日閲覧。
  46. ↑ 試合前には大沢氏しのんで両軍が黙とう スポーツニッポン 2010年10月9日閲覧
  47. ↑ 毎日放送、2009年(平成21年)12月15日『痛快!明石家電視台』より。
  48. ↑ 大沢あかねが女児出産 サンケイスポーツ 2010年9月8日閲覧
  49. ↑ 49.0 49.1 『野村克也の目』1982年(昭和57年)10月1日
  50. ↑ 南海はこれについて、野村だけを指しているのか、鶴岡以後の監督全てを指しているのかは不明である。
  51. ↑ 『球道無頼』P88 - 89。
  52. ↑ 南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)、p49
  53. ↑ 玉木のウェブ日記によると、謝罪を申し入れたTBSのディレクターに「大沢さんが謝るか自分が番組に出るか、どちらか決めてほしい」と返答したが、結局連絡はなかったという[1]。