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万世一系

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万世一系(ばんせいいっけい)とは、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室皇統についていう[1]。「万世一系」の語は、岩倉具視の「王制復古議」(慶応3年10月)が初出であるとされる。[2]

定義

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伊藤博文

伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、万世一系を以下のように定義している[3]

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起源と正統性

天皇の起源

『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである[4]

6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する[5]

だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。6世紀に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもない[6]

皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである[6]

日本神話

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天照大神

天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅ニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。

古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。

この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。

歴史

「万世一系」論の始まり

[7]

「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。この主張について、十数世紀にわたって誇りを抱いたり、不思議に思う人々がいた。

大伴家持(718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

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大伴家持

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天皇たちの長い家系が 世々代々
この諸地方を治めてきた
深山がつらなり 広き川があまた流れ
数えきれぬ貢(みつ)ぎ物(もの) 尽きせぬ宝を
産みなすこの国を

この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

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聖徳太子

『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子(574-622)は、この日付を初めて定式化した。天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。実際の建国は1000年後と思われるが、この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。

神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。

中国

[8]

王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめていた。

新唐書』はの歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている[注 1]。『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている[9]楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加した人物である。平安時代の日本の学僧である奝然(938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。[10][11]」という情報をもたらしたという。当時の天皇は円融天皇で、皇統譜によれば、実際に64代目にあたる。

宋史』はの歴史をまとめた史書である。そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している[12]

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北宋の太宗

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日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。北畠親房(1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている[13][14]

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北畠親房

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ヨーロッパ

[15]

16~17世紀のヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロスペインのフィリピン臨時総督である。『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している[16]

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当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している[16]

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ここでも日本建国を紀元前660年としている。

エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している[17]

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エンゲルベルト・ケンペル

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さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。

江戸時代

[18]

江戸時代尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

山鹿素行(やまが そこう、1622~85)は儒学と軍学の大家である。寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている[19]

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山鹿素行

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とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。本多利明(1743~1820)は蘭学を学んだ経世家である。寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している[20]

明治時代

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福澤諭吉
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新渡戸稲造

[21]

明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉(1835-1901)も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。明治8年(1875年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。

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ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)はクリスチャンの教育者である。国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している。スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた[22]

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戦前

万世一系は、戦前において、共和制共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

北一輝は戦前の右翼思想の大物である。自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。 テンプレート:Seealso

戦後

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昭和天皇
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今上天皇

[23]

万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした[24]

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日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。

万世一系がうたわれた実例

大日本帝国憲法

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[25]

明治22年(1889年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。

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輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。

君が代

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[26]

明治13年(1880年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する[27]

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君が代の楽譜

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チェンバレン

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

日本の国歌も皇統の永続性(万世一系)がテーマとされている[28]。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えているとされた[29]

国体の本義

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国体の本義とは、昭和13年(1938年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。万世一系についての主張を以下に引用する[30]

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その他の「万世一系」論

  • 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)
  • 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス旧皇室典範第一条)
  • 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
    • 詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。

疑義・論争

万世一系についていくつかの疑問がなされ、大きな論争に発展した。

戦前の論争

明治44年(1911年)には、国定教科書問題・南北朝正閏論争があった。学校の歴史教科書で「南北朝時代」の用語を使っていた。このことをめぐって、帝国議会南北朝正閏論が問題化した。それ以降の教科書では、「吉野朝時代」の用語を使うことになった。この問題では、万世一系の概念の中で、皇統の一系(皇統が分立することがない)が問題になった。江戸時代から一般的であった南北朝時代の史観が、明治時代の万世一系では不適当とされた事例である。また、壬申の乱のような皇室での争いは、教科書に記述がなかった。

この問題のように、南北朝問題は、万世一系や皇国史観が史実に基づいているかを考察するうえで重要な問題である。また、古事記や日本書紀などの古代史の研究が進むにつれて、考古学の成果により初期の天皇の実在に疑問が提示されたり(欠史八代)、第26代の継体天皇の即位を王朝交代とする説が出た(現在では、継体天皇は第25代までの天皇とは血のつながりがないとの説も存在する。)。このように、戦前・戦後を通じて、歴史学の観点から万世一系が歴史的な事実であるかについて、疑問が持たれてきた経緯がある。しかし、特に戦前では、不敬罪治安維持法などの存在などから、皇室の権威にかかわる問題について論争が自由にできなかった。万世一系を否定する見解を徹底して主張した歴史家や知識人は、決して多くはなかった。

国体との関係

国体の一番の根拠は万世一系であった。それゆえに国体の問題でも深い影響を与えていた。天皇機関説論争の際には、神勅が天皇による直接統治の根拠とされた。『国体の本義』でも、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。昭和維新を標榜した一連の変革運動でも、君民一体の思想から、天皇による直接支配こそ社会の閉塞をうちやぶるものであり、「君側の奸」がそれを妨げているという主張がなされた。この問題により、万世一系をめぐる論争は、天皇制の問題と結びついて大きな広がりを持つことになる。

戦後の歴史家

「戦前の日本で天皇の王朝の非常な古さが国家主義的に悪用されたことに強く反発する戦後の歴史家は、日本における皇室制度と皇室の異例な長命さという意義を軽んじてきた。しかし、そうした彼らでも認めざるをえないのは、皇位を占めている血縁集団が世界最古の在位の君主家だということである。[31]」という指摘が戦後の歴史家に対してなされている。

皇位継承問題

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第二次世界大戦後、敬宮愛子内親王などの皇族の女子が誕生する一方で、秋篠宮文仁親王誕生以降は悠仁親王の誕生まで約40年もの間皇族の男子が誕生せず、皇位継承の権利を持つ皇族の男子が不足している。このため、皇室典範が早期に改正され、女性天皇が誕生する可能性が高まっていた。このことを背景に、皇統の女系天皇を容認しようとする皇室典範に関する有識者会議などの動きがある。だが、万世一系の伝統が断絶するとして、反対する意見が強く、女系容認には至っていない。

脚注

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参考文献


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  1. 三省堂新明解四字熟語辞典』。
  2. 島善高「万世一系の由来」『律令制から立憲制へ』,成文堂,2009。p.308には『岩倉具視関係文書』第一,p.301から「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)が引用されている。
  3. 伊藤博文『皇室典範義解』pp.2-3。原文はカタカナ。国立国会図書館 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788977/1
  4. シロニー(2003)、34頁。
  5. シロニー(2003)、34~36頁。
  6. 6.0 6.1 シロニー(2003)、36頁。
  7. この章は、シロニー(2003)、22-24頁を参照。
  8. この章は、シロニー(2003)、24-26頁を参照。
  9. Ryusaku Tsunoda and L.C. Goodrich, ed., Japan in the Chinese Dynastic Histories. Pasadena: P.D. and Ione Perkins, 1951, pp.38-42.
  10. Charlotte von Verschuer, `Japan's Foreign Relations 600 to 1200 A.D.', Monumenta Nipponica, vol.54, No.1 (Spring 1999), p.30.
  11. 田中健夫編『善隣国宝記』集英社、一九九五年、60~61・522~523頁。
  12. Ryusaku Tsunoda and L.C. Goodrich, ed., Japan in the Chinese Dynastic Histories. Pasadena: P.D. and Ione Perkins, 1951, p.55.
  13. Ryusaku Tsunoda, Wm. Theodore de Bary, Donald Keene, eds., Sources of Japanese Tradition. New York: Columbia University Press, 1958, p.279.
  14. 神皇正統記現代思潮社、一九八三年、27~29頁。
  15. この章は、シロニー(2003)、26-27頁を参照。
  16. 16.0 16.1 Michael Cooper, ed., They Came to Japan. Barkeley: University of California Press, 1965, p.76.
  17. Engelbert Kaempfer, The History of Japan. Glasgow: MacLehose & Sons, 1906, 3 vols., vol.1. pp.259-260.
  18. この章は、シロニー(2003)、27-28頁を参照。
  19. David M. Earl, Emperor and Nation in Japan. Seattle: University of Washington Press, 1964, p.48.
  20. Donald Keene, The Japanese Discovery of Europe. London: Routledge and Kegan Paul, 1952, pp.79, 153 n.12.
  21. この章は、シロニー(2003)、30-32頁を参照。
  22. Nitobe Inazo, 'The Moral Basis of the Japanese Monarchy', in The Works of Inazo Nitobe. Tokyo: University of Tokyo Press, 1979, vol.3, pp.498-499.
  23. この章は、シロニー(2003)、32-33頁を参照。
  24. 高橋紘鈴木邦彦編著『陛下、お尋ね申し上げます徳間書店、一九八二年、157頁。
  25. この章は、シロニー(2003)、31頁を参照。
  26. この章は、シロニー(2003)、29-30頁を参照。
  27. 和訳はシロニー(2003)、30頁より。英訳は『国歌君が代の研究』より引用。
  28. シロニー(2003)、29頁。
  29. シロニー(2003)、30頁。
  30. 文部省(編集)『国体の本義 (1937年) [古書] (-)』1937年。ASIN B000JBMD00ISBN。
  31. シロニー(2003)、33頁。


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