ヴァイマル憲法
ヴァイマル憲法(ヴァイマルけんぽう、独:テンプレート:Lang)は、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、帝政ドイツが崩壊した後に制定されたドイツ国の共和制憲法である。憲法典に記されている公式名はドイツ国憲法(独:テンプレート:Lang)。
ドイツの憲法は、フランクフルト憲法やボン基本法のように、その憲法が制定された都市の名をつけて通称とする慣例があり、ヴァイマル憲法も憲法制定議会が開催された都市ヴァイマルの名に由来する通称である。ワイマール憲法と表記される場合も多い。
ナチ党の権力掌握によって「憲法変更的立法」である全権委任法が成立すると、ヴァイマル憲法は事実上停止状態となった。その後、ドイツの敗戦を経て全権委任法と関連法令が無効化され、1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)とドイツ民主共和国憲法の制定によって東西ドイツの新たな憲法体制がスタートした。
経緯
第一次世界大戦の終焉に、1919年1月にヴァイマルにて憲法制定の国民会議が開催され制定。
起草文はドイツ民主党の政治家で弁護士であったフーゴー・プロイスによって作成。
初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルトが1919年8月11日に調印し制定。
構成
前文
原文:テンプレート:Lang
訳:ドイツ国民は、民族が団結し、自由と正義の元で、新しい強大な国家を目指し、内外の平和に貢献し、社会進歩を促進させるため、この憲法を採択した。 (改訳:ドイツ国民[またはドイツ民族]は,その諸部族の一致のもとに,かつ,ドイツ国を自由と正義とにおいて新しく,かつ確固たるものにし,国内国外の平和に奉仕し,そして社会の進歩を促進せむとする意思に心満たされて,この憲法をみづからに与えた.)
第一主部 国家の構築と目的
第二主部 ドイツ人の権利と義務
内容
ヴァイマル憲法の最大の特徴は人権保障規定の斬新さにある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、社会権保障を考慮する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となった。当時は世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定している。
統治制度はおおよそ次のとおりである。
- 直接選挙で選ばれる大統領(任期7年)を国家元首に置き、憲法停止の非常大権などの強大な権限を与えた。また、大統領は首相の任免を行うとする半大統領制を初めて採用した。
- 選挙権は20歳以上の男女に与えられたテンプレート:Sfn。
- 大統領は議会の解散権を有し、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができる。
- 議会は、国民代表の国会(テンプレート:Lang)と、州(ラント)代表の参議院(テンプレート:Lang)からなる両院制である。
- 国会の選挙区は35、さらにいくつかの選挙区を結合した16の選挙区連合、そして一つの全国区からなるテンプレート:Sfn。
- 国会の選挙方式は比例代表制で、厳正拘束名簿式であるテンプレート:Sfn。得票6万票ごとに一人が議員に選出されるため、議員定数は存在しなかったテンプレート:Sfn。
- 参議院は各州からの代表者が送られる。
- 司法機関は通常裁判所の他に国事裁判所がある。
- 志願兵からなる国軍(テンプレート:Lang)を置き、大統領が直接指揮・監督する。
- 一定数の有権者による国民請願や国民投票など、直接民主制の要素を部分的に採用した。
問題点
ヴァイマル共和国憲法は、国家主権者を国民とする、財産に制限をつけない20歳以上の男女平等の普通選挙をおこなう、国民の社会権を承認するなど斬新性があった。だが有権者の直接選挙で選出されたドイツ国大統領に、首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権、国防軍の統帥権など、旧ドイツ皇帝なみの強権が授与された。これらの強権は混乱期にあった共和制成立期においては各種の反乱鎮圧に際して発動された。
制定当時は旧ドイツ帝国憲法にくらべ、はるかに民主的な憲法とされた。ヴァイマル憲法では首相の指名は大統領の指名のみが条件であったが、議会は首相を不信任することもできたテンプレート:Sfn。当時の憲法解釈では首相指名には議会優位説がとなえられており、エーベルト大統領は議会の支持が得られる人物を首相に任命していた。しかし、完全比例代表制の弊害である少数政党乱立を防止するための阻止条項たる最低得票率制限[1]がなかったため、ヴァイマル共和国内閣は少数の複数政党による連立内閣となることが多かった。政党間の協議も混乱に拍車をかけ、選挙制度改革はたびたび議論されたものの、成立しなかったテンプレート:Sfn。
この情勢を解決するため、首相指名には大統領の権限が優先されるという大統領優位説が次第に浸透するようになったテンプレート:Sfn。元来保守的なヒンデンブルク大統領は第一党であるドイツ社会民主党を信頼せず、ヘルマン・ミュラー首相の退陣後は自らの指名のみを基礎とする「テンプレート:仮リンク」を組織させた。大統領内閣の首相は議会で多数派を確保できず、法案制定を大統領命令に頼るようになった。ナチ党の権力掌握期にナチ党が第一党を占めたにもかかわらずアドルフ・ヒトラーが首相に指名されなかったのも、1933年1月30日になって指名されたのもこの大統領内閣制度によるものであった。
ナチス・ドイツ期のヴァイマル憲法
テンプレート:See also ヒトラー内閣成立後間もない2月22日、国会議事堂放火事件が発生した。 ヒトラーはヒンデンブルクに迫ってテンプレート:仮リンクとテンプレート:仮リンクの二つの大統領令(テンプレート:仮リンク)を発出させた。これにより、ヴァイマル憲法が規定していた基本的人権に関する条項、 114、 115、117、118、123、124、153の各条は停止された。ヒトラーとナチ党はこの大統領令を利用し、反対派政党議員の逮捕、そして他党への強迫材料とした。また地方政府をクーデターで倒し、各州政府はナチ党の手に落ちていった。この時点で他の政党には、ナチ党の暴力支配に抵抗できる術はなくなったテンプレート:Sfn。
この状況下で制定されたのが『全権委任法』である。ヒトラーは憲法改正立法である全権委任法の制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明したテンプレート:Sfn。この法律自体ではヴァイマル憲法自体の存廃、あるいは条文の追加・削除自体は定義されなかったものの、政府に憲法に違背する権限を与える内容であった。当時の法学者カール・シュミットはこの立法によって憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと解釈しているテンプレート:Sfn。こうして事実上ヴァイマル憲法による憲法体制は崩壊した。
しかし、公式にヴァイマル憲法の廃止が宣言されたことはなく、また1934年2月3日の『ラント直接官吏の任免に関する大統領令』がヴァイマル憲法の46条を根拠としていたようにテンプレート:Sfn、その後もヴァイマル憲法を根拠とした法令はいくつか発出されている。
1934年1月30日の『テンプレート:仮リンク』第四条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が制定されている。同法では制度の改廃に当たっては憲法改正手続きが不可欠とされていた第二院(ライヒスラート)の廃止が決定されており、政府が憲法制定行為を手続き無しに行うことが可能になったテンプレート:Sfn。以降行われた『テンプレート:仮リンク』による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『ライヒ新構成法』第四条を根拠としておりテンプレート:Sfn、ヒトラーは『国家元首に関する法律』の執行布告において、自らの任命が憲法上有効であると言及しているテンプレート:Sfn。
これ以降、ヒトラーは自らの命令根拠が成文法にあるとは言及しなくなったテンプレート:Sfn。ナチス・ドイツ期において憲法は明文化されたものではなく、「民族の種に根ざして形成される共同体の生」、つまり「民族共同体」こそが憲法とされテンプレート:Sfn、実際の統治に当たっては、「民族共同体の意志」を体現する総統による指導(指導者原理)が行われることとなっていたテンプレート:Sfn。すなわちナチス・ドイツ時代の「憲法体制」とは、アドルフ・ヒトラーの人格を介したナチズム運動と国家との結合という前例のない体制であったテンプレート:Sfn。
影響
ヴァイマル憲法の失敗をもとに、戦後のドイツ連邦共和国の憲法であるボン基本法は以下のように定めた。
- 大統領を国民議会による間接選挙とし、権限を儀礼的な役割に限定する。
- 国民に自由主義と民主主義を擁護する義務を負わせ(戦う民主主義)、ナチ党擁護など、明らかにこれを否定する政党や政治団体には裁判所が解散命令を下すことを可能とする。
- 議会は次期首相候補を定めることなしに内閣不信任案を発議できない(建設的不信任制度)。
- ドイツ連邦軍を、大統領ではなく内閣の統帥権下に置く。
- 選挙制度は小選挙区比例代表併用制を採用している。比例区においては阻止条項を導入しているテンプレート:Sfn。[2]
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal
- テンプレート:Cite journal