狩野亨吉

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テンプレート:Infobox scientist 狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日慶応元年7月28日) - 1942年昭和17年)12月22日)は、日本の教育者

第一高等学校の校長、京都帝国大学文科大学初代学長を務める。また、江戸時代の特異な思想家安藤昌益の発見、竹内文書の批判、春画の蒐集でも知られる。

略歴・人物

小学校入学まで

学歴

職歴

人物

東京府第一中学同級に親友の澤柳政太郎松崎蔵之助岡田良平上田萬年幸田露伴尾崎紅葉がいた。

夏目漱石が英国留学後、一高講師になったのは狩野の推薦による。また、理科から文科哲学へと若かりし日の狩野と類似の軌跡を辿った田邊元なども教え子。名校長の誉れが高く、一高の校風はこの時期に確立したといわれている。内藤湖南幸田露伴ら正規の学歴がない民間学者を京大に招き、波紋を呼んだ。英文科に夏目漱石を招くことも強く望んでいたが、漱石は拒絶し朝日新聞社に入社した。ただ、その後も交友関係は続き、漱石の葬儀にあたり友人代表として弔辞を読んでいる。

京都帝国大学退官以後、学校関係の定職にはつかなかった。大正12年(1923年東京市小石川区大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、書画や刀剣の鑑定などで生計を立てた。浮世絵春画の蒐集家としても有名で、改造社社長の山本実彦からは「春画蒐集にかけては日本一」と折り紙をつけられた。また、浮世絵研究家の金子孚水は「浮世絵の秘画の収集は世界最大のもの」と評している。自ら絵筆を執って描いたあぶな絵も数百枚に及ぶ。これらの自筆の絵に合わせる形で、ノート30冊のポルノ小説を遺したことも知られている。

狩野の学識を惜しむ沢柳政太郎から東北帝国大学総長に推されたこともあるが拒絶。山縣有朋浜尾新の意向で、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育掛に推されたこともあるが、「自分は危険思想の持ち主である」として拒否した。

一高在任中の明治32年(1899年)江戸時代の思想家安藤昌益の著書『自然真営道』を見出し、昭和3年(1928年)『岩波講座 世界思潮』第三冊誌上に「安藤昌益」を発表し紹介。また、天津教古文書のいわゆる竹内文書について文献批判を行い、昭和11年(1936年)6月、岩波書店『思想』誌上で「天津教古文書の批判」を発表し偽書であることを証明した。なお、昭和17年(1942年)天津教の裁判に検察の証人として言語学者橋本進吉とともに出廷している。

明治45年(1912年)から大正2年(1913年)にかけて、10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却。この蔵書は、同大学図書館に狩野文庫として所蔵されている[1]。また、東京大学駒場図書館にも、狩野文庫として亨吉の日記・来翰が所蔵されている[2]

生涯独身で、童貞だったとする説もある。生前には一冊の著書も刊行しなかった。多磨霊園に葬られている。


文献

  • 安倍能成編 『狩野亨吉遺文集』 岩波書店、1958年。
  • 青江舜二郎 『狩野亨吉の生涯』 明治書院、1974年。のち中公文庫、1987年。
  • 鈴木正 『狩野亨吉の思想』 第三文明社〈レグルス文庫〉、1981年。のち増補版、平凡社ライブラリー、2002年。

脚注

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外部リンク

  • http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000002kano
  • http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/koho/guide/coll/collection.html