志生野温夫

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テンプレート:BLP unsourced テンプレート:基礎情報 アナウンサー 志生野 温夫(しおの はるお、1932年11月4日 - )は、大分県竹田市出身のフリーアナウンサーで、シオノ事務所代表取締役を務める。

来歴・人物

國學院大學卒業後の1956年日本テレビへ入社、同期に本多当一郎がいる。1972年、フリーへ転身後現在も地上波やCSなどで活躍し、日本テレビアナウンスカレッジ講師や結婚式の司会業も行なっている。元NHKアナウンサー山川静夫は大学時代の同級生である。

「~であります!」調の実況が特徴であり、倒産した全日本女子プロレスではWWWAの二代目コミッショナーを務めた。

エピソード

  • 永年務めた全日本女子プロレス中継の実況で有名だが、力道山時代の日本プロレス以来の実況キャリアを有する。
  • 女子プロレスを担当した当初は、気恥ずかしさからリングを凝視する事ができなかったという。
  • プロレス実況時に「投げた」「捕まった」など一般的な表現を多用したのは、技の名前を覚えていなかったからだとされる。選手名を取り違えて試合後に絡まれたり、ダンプ松本の名前をど忘れして「おでぶちゃん」と言って誤魔化した事もあったが、レスラーの引退式で披露する名調子は毎度ファンを泣かせた。
  • ジャガー横田が引退後に解説者として活動していた時期の「ねえ、ジャガー」と呼びかけるフレーズが馴染みである。
  • 極悪レフェリー阿部四郎とは、旧知の仲である。
  • プロ野球中継、ゴルフ中継でも活躍が顕著である。ゴルフ中継は日本初となったプロゴルフトーナメント大会の生中継(1957年カナダ・カップ霞ヶ関カンツリー倶楽部)の実況アナウンスを担当した。後年この中継について、「とにかくゴルフの中継なんて初めてですからどうやっていいのかわからなかった。全てが手探りで必死になってやりました。しかもその大会はトラさん(中村寅吉)と小野光一さんの活躍で日本が優勝したでしょう。自分のアナウンサー生活でも特に印象深い想い出ですよ」と語っている。
  • 1965年の日本シリーズ読売ジャイアンツ南海ホークス第5戦で当時新人だった土井正三が南海のエース・杉浦忠から放ったサヨナラヒットで優勝を決めた瞬間(V9の第一歩)を実況した。

出演

現在の出演番組

過去の出演番組

CM

イベント

著書

  • 超話術 - プロが教えるうまい「しゃべり」の基本(学陽書房

関連項目・人物

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