宇高連絡船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年7月10日 (木) 08:48時点におけるMX1800 (トーク)による版 (就航船)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
ファイル:Sanuki-maru anchor Takamatsu.jpg
サンポート高松の一角にある「讃岐丸」の錨のモニュメント(中央奥は高松駅)

宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびこれを継承した四国旅客鉄道(JR四国)により、岡山県玉野市宇野線宇野駅香川県高松市予讃線高徳線高松駅との間で運航されていた鉄道連絡船である。

概要

山陽本線を建設した山陽鉄道は、予讃線土讃線の一部を建設した讃岐鉄道1904年に買収した時点でこの航路の計画を立てていたが、実現したのは同社が鉄道国有法に基づき国有化された後の、宇野線が完成した時となった。

1910年(明治43年)6月12日に宇野線が開通。これまで、山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、多尾連絡船(尾道-多度津間)及び、岡山-高松間航路を統合して開設された。船舶は、2航路で使われていた船舶2隻(玉藻丸児島丸)を転用した。

前史として、1903年(明治36年)3月18日に山陽汽船商社が、岡山港-高松港間及び多尾連絡船(多度津港-尾道港間)が就航した。元々は玉藻丸は岡山港-高松港間に、児島丸は多尾連絡船に就航していた。岡山港-高松港間航路は、浅喫水船で岡山を出て途中三蟠港で玉藻丸に乗り換え。利用客が低迷した為に、同年8月に九蟠、9月に土庄(小豆島)も経由する様に改められた。

また、多尾連絡船は当初は直通だったが、1906年(明治39年)6月に鞆港を経由する様になった。

両航路とも、1906年(明治39年)の鉄道国有化で国鉄の航路になり、宇高連絡船就航前日まで就航した。

以後、本州四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。1972年11月8日からは急行便としてホーバークラフトが運航され、さらに1985年末からは、多客期などの臨時急行便として高速艇も運航された。

1988年(昭和63年)4月10日本四備讃線瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで連絡船とホーバークラフトは廃止され、宇野周辺の利用者のために残された高速艇の運航も1990年(平成2年)3月に休止、翌年3月に廃止となった。

なお、瀬戸大橋の通行料が高額であったことなど事情から、宇高連絡船と並行して運航していた民間航路(四国フェリー宇高国道フェリー・本四フェリー[1]宇高航路は、瀬戸大橋開業後も運航を続け、21世紀初頭でもトラックドライバーの利用が多かった。[2]しかし、明石海峡大橋の供用開始、本四高速などの通行料金値下げ、燃油価格高騰などが原因で利用者が減少、徐々に減便を余儀なくされる。

2009年4月1日に本四フェリーが撤退[3]2010年2月12日、国道フェリーと四国フェリーが、宇高航路の同年3月26日限りでの廃止を申請したが[4]、国道フェリーは同年3月4日に、四国フェリーは同年3月11日に廃止申請を取り下げ、当面の運航継続を決めた。

国道フェリーは2012年10月17日をもって休止され、2012年10月18日以降では宇高航路は四国フェリー1社による運航となっている。

強風などで本四備讃線の瀬戸大橋橋上区間(児島駅 - 宇多津駅)に通行規制がかかった場合は、これらのフェリーによる代行輸送契約が結ばれている。

沿革

ファイル:JNR Ukou Ship Line at Takamatsu Port.jpg
出港する船上より高松港を望む(1981年8月12日)
  • 1903年(明治36年)3月18日:前身となる岡山港-高松港間及び多尾連絡船(多度津港-尾道港間)就航。
  • 1910年(明治43年)6月12日:宇野線岡山 - 宇野が開通し、岡山 - 高松の航路と尾道 - 多度津の航路を統合して宇野 - 高松航路を開設。玉藻丸・児嶋丸就航。前日に岡山港-高松港間及び多尾連絡船廃止。
  • 1917年(大正6年)5月15日:水島丸就航。常時2船運航となる。
  • 1921年(大正10年)10月10日:貨車渡艀曳航による貨車航送を開始。
  • 1923年(大正12年)6月29日:山陽丸就航。玉藻丸、高松港に係船。
  • 1923年(大正12年)7月3日:南海丸就航。
  • 1924年(大正13年)3月1日:玉藻丸・児嶋丸を瀬戸内連絡急行汽船会社に売却。
  • 1929年(昭和4年)11月23日:第一宇高丸就航。陸上設備の完成まで貨車渡艀曳航による貨車航送を続ける。
  • 1930年(昭和5年)4月1日:陸上設備の完成により第一宇高丸、貨車航送を開始。
  • 1934年(昭和9年)7月12日:第二宇高丸就航。
  • 1937年(昭和12年)8月12日:第一宇高丸、聖川丸(川崎丸株式会社所属)と衝突し、沈没。
  • 1942年(昭和17年)10月23日:第三・第四・第五関門丸、下関 - 小森江航路より転属(関門トンネル開通による)。
  • 1942年(昭和17年)11月24日:第一関門丸、下関 - 小森江航路より転属。
  • 1943年(昭和18年)5月12日:南海丸、座礁し沈没。
  • 1943年(昭和18年)5月12日:第二関門丸、下関 - 小森江航路より転属。関門丸型5船による全船運航を開始。
  • 1947年(昭和22年)7月6日紫雲丸就航。
  • 1947年(昭和22年)10月14日:第二宇高丸、第三関門丸と衝突し沈没。
  • 1948年(昭和23年)2月26日:眉山丸就航。
  • 1948年(昭和23年)6月25日:鷲羽丸就航。
  • 1948年(昭和23年)12月27日:山陽丸・南海丸・第一 - 第五関門丸の運航廃止。
  • 1949年(昭和24年)3月1日:宇野・高松港の第2バース完成により使用開始。同日、紫雲丸型3隻により車両航送開始。
  • 1950年(昭和25年)3月25日紫雲丸、直島水道にて鷲羽丸と衝突し1度目の沈没。
  • 1950年(昭和25年)5月10日:第一 - 第五関門丸を日本自動車航送株式会社に売却。  
  • 1950年(昭和25年)10月1日:大阪駅 - 松山駅須崎駅間に直通準急列車を設定。宇高連絡船では客車を積み込んで航送。乗客が乗った客車の車両航送が開始された。
  • 1972年(昭和47年)11月8日ホーバークラフト就航。
  • 1985年(昭和60年)12月 - :多客期やホーバー艇のドック入り時の臨時便として、高速艇が就航。
  • 1988年(昭和63年)4月9日:瀬戸大橋線開業で、列車での本四間の移動が可能となり、連絡船、ホーバークラフトが共に廃止。高速艇は存続。
  • 1990年(平成2年)3月31日:旅客減に伴い高速艇の運航を休止。
  • 1991年(平成3年)3月16日:高速艇廃止。名実ともに81年の航路の歴史に幕を閉じる。 
  • 2010年(平成22年)6月12日:宇高航路100周年を記念し、JR四国の主催で「宇高連絡船メモリアルクルーズ」を開催。

紫雲丸の沈没事故

テンプレート:See 1955年(昭和30年)5月11日:濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人死亡する事故(紫雲丸事故(2度目の沈没事故)国鉄戦後五大事故の一つ)が発生した。この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。事故を受けた組織見直しで国鉄四国支社(のち四国総局)に宇高船舶管理部を設置。

この事故は修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。以降数年間(中には瀬戸大橋開通前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県) - 坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。

就航船

高松港旅客ターミナルビル3Fには現役当時の写真やパネル、備品、連絡船の模型等が展示された「宇高連絡船記念展示場」がある。

客船
玉藻丸児島丸水島丸南海丸山陽丸
鉄道航送船(貨物船)
第一宇高丸第二宇高丸第三宇高丸第一関門丸・第二関門丸第三関門丸・第四関門丸第五関門丸第一讃岐丸
鉄道航送船(客貨船)
紫雲丸(瀬戸丸)・鷲羽丸眉山丸讃岐丸(後の第一讃岐丸)
伊予丸土佐丸阿波丸讃岐丸(2代目)
ホバークラフト
かもめはくちょうとびうお
急行料金を支払うことで利用できたホーバークラフトは、通常の連絡船が所要1時間かかるところを僅か23分で結び、「海の新幹線」のキャッチフレーズでビジネス客などに人気があった。予定していた連絡船に乗り遅れてしまった場合、ホーバーを使うことで、乗船予定のさらに1便前に出航した連絡船さえも追い越し、宇野ないしは高松に先着できる事もあった。そのため、四国側から岡山駅乗換えで山陽新幹線に乗車しなければならない乗客が連絡船に乗り遅れた時など、ホーバーは特に重宝されていた。なお、ペットなどの有料手回り品の持ち込みはできなかった。
高速艇
ひかり2号(四国フェリー、1985年12月28日 - 1986年1月7日)・プリンセスオリーブ(両備運輸、1986年3月1日 - 14日、7月1日 - 7日)・しおかぜ(共同汽船、1986年7月8日 - )

ギャラリー

逸話

連絡船の最盛期、着岸港である宇野駅と高松駅では、連絡船接続列車の座席を確保するために、船から降りた多くの乗客が列車まで凄まじいスタートダッシュをかけることが有名だった。将棋倒しになったり海に飛び出したりして死んだり重傷を負った者もいたほどで、半ば「命がけの競争」であった(同じ現象は南海フェリーと接続する徳島県・旧小松島港駅でも見られた)。

ファイル:RenrakusenUdon.JPG
「連絡船うどん」の店

宇高連絡船の追憶として、連絡船デッキで販売されていた讃岐うどんがしばしば挙げられる。とりわけ、四国へ向かう連絡船上で供されるうどんは、船上で生麺から茹でず、茹で上げ済みの麺を搭載していたため、時間経過の為ややコシが失われた麺にイリコサバぶしの類による庶民的なだし汁が相まって、上等とは言い難いが、香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった。そのため、帰省シーズンには展望デッキの上で潮風にふかれながらこれを食する人が大勢いた[5]。なお、讃岐うどんの販売が始まったのは1969年で、約80年の連絡船の歴史の中では最後の約20年間だけの営業であった[6]。高松駅構内には当時の連絡船のうどんを参考に味の再現を図った「連絡船うどん」の店があるが、麺はJR四国グループの製麺/うどん店「めりけんや」製である。連絡船に麺を納入していた製麺所は別に現存するが、そちらの麺は用いていない。高松駅名物として定着しており、旅行客や地元客からの人気は今も高い。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』(成山堂書店、2000年) ISBN 4425923316
  • 鉄道アーカイブシリーズ『宇高連絡船 ~昭和63年・宇高航路最期の日の記録~』(ビコム2004年5月
  • 長船友則『山陽鉄道物語』 JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉 ISBN 978-4-533-07028-0

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:宇高航路
  1. 津国汽船。もとは日本通運が「日通フェリー」として開設し、津国汽船が委託を受ける形で運航。1984年に津国汽船の自社航路となり本四フェリーとして運航
  2. 瀬戸大橋利用よりコスト(利用料金)が安く、乗船中は燃料を節約出来る事に加えて長距離ドライバーは休息を摂る事ができた。
  3. 末期は四国フェリーの船を使用して共同運航の形としていた。
  4. 宇高航路来月で廃止/フェリー2社撤退 - 四国新聞2010年2月13日 なお、直島を経由して高松と宇野を結ぶ航路(四国汽船)については同日現在で廃止表明されていない。
  5. 讃岐うどんの冷凍技術が確立され、冷凍うどんが普及すると、瀬戸内海航路でもジャンボフェリーなど冷凍うどんを使用する売店・食堂等がみられる。
  6. うどん天国 空前ブームの深層(3)四国新聞2003年12月4日