内地

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内地(ないち)

  1. 大日本帝国憲法下の日本において、外地に対する日本の本土をあらわした呼び方。→本項で詳述。
  2. 中国語では周辺異民族の地に対し、長城の内側の、いわゆる中華とされた内地十八省地域。また香港マカオにおいて、中華人民共和国本土を指す呼び方。台湾ではどちらかといえば親中的なニュアンスを持つ用語とみなされる(台湾語)。
  3. 辞書的な意味では、ある国の本国(本土)、または内陸地のこと。

日本における内地(ないち)とは、大日本帝国憲法下の日本において、行政上日本本土(本国)とされる地域で、その範囲は共通法1条に定義されている。なお、共通法で内地に含まれない台湾朝鮮関東州南洋群島がいわゆる外地である。

共通法の制定

日本は、台湾を領土とした後、地域により異なる形式・内容の法令が施行される事態になったため、これらの法令の適用関係を定めるための法規範が必要になった。そのため、1918年に、日本の統治権が及ぶ各地域間の法令の適用範囲の確定及び連絡統一を目的とする共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)が制定された(2013年現在も廃止の措置は採られていないが、事実上失効していると解されている)。

なお、共通法は、その性質上当然に(領土ではない関東州や南洋群島も含む)外地にも施行されるべき法律とされていた。

また、法的には共通法1条で内地(同条2項で樺太は内地に含むと規定)とされていない地域が外地に該当する。

内地に見られる共通点

内地には以下の共通点が見られる。

1945年8月時点での内地の範囲

第二次世界大戦終結直前での内地の範囲を以下に記す。この時点では内地は1943年の内外地行政一元化の措置などを経て、総督府等の植民地政府が置かれない政府直轄の地域であり、共通法1条に内地と規定され上記の共通点が見られるが、戦後、一時期日本の施政から離れたり現在日本の主権が及んでいない地域も含まれている。

日常語としての用法

第二次世界大戦後、内地の一部と共に外地を全て喪失したため国土全てが上記の法的な意味での「内地」となったが、現在でも北海道沖縄県を始めとする離島で、それぞれが本州四国九州(北海道以外では北海道も含む)を指して「内地」と呼ぶ。

ただし北海道では公庁や教育現場・報道などでは北海道の域外について「道外」という表現を用いることもある。もっとも明治初頭以前は別の問題があり、北海道開拓使は明治6年(1873年)6月に公文書上で「内地」という用語の使用を禁じ、「府県」の使用を通達した[1]が、一般にはその後も広く「内地」が使われ続けた歴史がある。

一方、沖縄県では青年に顕著であり、沖縄方言などの「やまとぅ」と呼ぶ概念にほぼ相当する。より直接的にナイチャーという表現もある(ウチナーヤマトグチの項を参照)。しかし、報道や官公庁などでは「県外」という表現(例:県外移転など)が用いられている。

これらについては上記の地域(本土復帰以前で米軍統治時代の沖縄、小笠原を除いて)は戦前より行政組織・機関及び法的にも「内地」と位置付けられており、法的な意味では「外地」であったことはないため、誤用であるという意見がある。しかし、法的に外地ではないものの、実態や歴史的経緯を見ると、「外地」に準ずる性格を有している。

北海道は元来アイヌ民族の居住地であったが、中世以降、津軽地方など北東北の和人および和人化したアイヌ等北方民族を中心とした渡党による植民活動が道南を中心に行われた。そして江戸時代には、幕府は和人(シサム)の植民者集団(道南12館)の棟梁に起源をもつ松前藩を通じて、収奪的貿易を伴う植民地支配的な間接統治を行っており、明治維新以後は和人(シサム)の植民者が本格的に北海道を開拓した。

沖縄は元来琉球王国の統治下にあったが、薩摩藩による侵攻と、その後の間接統治によりヤマト勢力の政治下に入る。その後、廃藩置県を経て完全に大日本帝国に統合され、今に至る。

以上の経緯を持つ北海道や沖縄は、近世での間接的従属・植民地支配はあったものの、近代になって、初めて正式・完全な形でヤマト勢力の支配下に入った地域である点では、上記法的な「外地」と共通する面を持つ。住民意識としてもそれが反映されており、北海道や沖縄の住民が「内地」という用語を用いるのは、法的な位置づけの面では事実と反しているが、歴史的経緯としては理由がある。よって、法的用語としてはともかく、日常語として間違いであるとは言えない。また言語学的にみれば、そもそも、実際に使われている言葉に間違いがあるないという考え自体規範主義的なものとして批判される。

その他、国内留学を「内地留学」と呼ぶ例がある[2]

脚注

  1. 明治34年『殖民広報』1号掲載の「内地と云ふ用語」に記述。桑原真人「北海道の経営」『岩波講座日本通史第16巻 近代Ⅰ』岩波書店、356頁。
  2. 平成一四年度特殊教育内地留学生の派遣申請について

関連項目

外部リンク