グリム兄弟

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ファイル:Grimm.jpg
グリム兄弟。左・ヴィルヘルム。右:ヤーコプ。
ファイル:Hanau Bruder Grimm.jpg
ハーナウのグリム兄弟像

グリム兄弟(グリムきょうだい、テンプレート:Lang-de-short)は、19世紀にドイツで活躍した言語学者文献学者民話収集家・文学者の兄弟。日本では、『グリム童話』の編集者として知られる。

大人になるまで成長した兄弟としては男5人、女1人の6人兄弟であったが、通常は後世にまで名を残した長兄ヤーコプと次兄ヴィルヘルムの二人を指す(今日では後述の末弟・ルートヴィッヒも含むこともある)。

多くをヤーコプ・ヴィルヘルムの兄弟として活躍したが、グリム童話集ではルートヴィヒも挿し絵を手がけている。

来歴

ハーナウに生まれる。父は法律家のフィリップ・ヴィルヘルム・グリム(1751年 - 1796年)で、シュタイナウの伯爵領管理官兼司法官であった。

兄弟は裕福な家庭に生まれたが、1796年に父親が肺炎で死去し、困窮に陥った。しかし、伯母ヘンリエッケ・ツィンマーの援助により、ヤーコプ・ヴィルヘルムの二人は、ギムナジウムに入学し、首席で卒業、マールブルク大学法学部に進学した。大学で、新進の法学者・フリードリヒ・カール・フォン・ザヴィニー教授の影響を受け、ドイツの古文学や民間伝承の研究に目を向けるようになった。

ゲッティンゲン七教授事件

テンプレート:Main

ヤーコプとヴィルヘルムは共にゲッティンゲン大学の教授だったが、大学の自治問題に関与して、1837年に他の数人の教授と自らの矜持を貫き、大学を去る。「ゲッティンゲンの七人事件」(Gottinger Sieben)とも呼ばれる。

1840年に兄はベルリン大学教授となるが、弟ヴィルヘルムは同じくベルリンで、より自由な立場で著述活動を行った。多くを兄弟として活躍し、『グリム童話集』の編集者として著名である。また、ゲルマン語の研究者としてもしられ、比較言語学を生み出した「グリムの法則」でも知られている。

ヤーコプ・グリム

ファイル:Grabstätte Grimm.jpg
左からヘルマン・グリム、ヤコブ・グリム・ルートヴィッヒ・グリムの墓

ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリムテンプレート:Lang-de1785年1月4日 - 1863年9月20日)は、グリム兄弟の長兄。法制史・印欧語研究で名を成し、1819年から1834年にかけて発行された「ドイツ語文法」で知られる。この中の子音の推移についての法則性は、「グリムの法則」と呼ばれている。なお、ドイツ語の習得に欠かせない概念であるウムラウトや強変化・弱変化もヤーコプの造語である。

大学卒業前の1805年にザヴィニー教授の招きを受け、パリで法政史研究の助手として働く。1806年にドイツに戻ってきたが、今度はナポレオン戦争の後始末で、公設秘書として各国を飛び回り、ウィーン会議にも出席している。その後、『ドイツ語文法』を1819年から1834年にかけて発行。途中、1829年、弟と共にゲッティンゲン大学に呼ばれ、司書官兼教授として教鞭を執った。1835年、『ドイツ神話学』を刊行し、ドイツ人にも忘れ去られていた妖精や神々の神話を書物に残した。評議員にも選ばれ、宮中顧問官の称号を受けるなど大学でも彼は高く評価された。

しかし1837年、「ゲッティンゲン七教授事件」(前述)で失職し、亡命先のカッセルで、自分たちの主張をまとめた弁明書『彼の免職について』を発表、スイスのバーゼルで発刊された。兄弟は、失職の身のままドイツ語辞典の編纂にあたったが、1840年プロイセンの国王がフリードリッヒ・ヴィルヘルム4世に代わると、兄弟はベルリン大学の教授として迎えられた。1842年、ザヴィニーや歴史学者ランケと共に国家勲章プール・ル・メリトを与えられた。1846年のフランクフルトで開催されたドイツ文学者会議では、ヤーコプは満場一致で議長に選出された。また、1847年フランクフルト国民議会でも代議員に選出され、憲法草案を提示している。

生涯を独身で過ごし、ヴィルヘルムが結婚してからは、ヴィルヘルム夫婦と共に暮らした。

ヴィルヘルム・グリム

ヴィルヘルム・カール・グリムテンプレート:Lang-de1786年2月24日 - 1859年12月16日)はグリム兄弟の次兄。グリム童話の二版目以降の改訂は、ほぼ彼の手によっている。

ヴィルヘルムは、あまり体が丈夫でなかったこともあり、政治的にも目立った活躍をした兄と違い、身体をいたわりながら地道に研究を続けた。社交的な性格であったこともあり、兄弟はそれぞれの違いを認めつつ、よく補い合って活躍したと言われている。

大学を卒業後、しばらくは病身のため職に就けなかったが、1814年、カッセル大公の図書館書記となる。1825年、幼なじみのドルトヒェン・ヴィルトと結婚し、3人の子を成した。1829年、兄ヤーコプと共にゲッティンゲン大学に呼ばれ、教鞭を執った(正確には、この時点では司書、翌年から司書官兼助教授、4年後から司書官兼教授となった)。1834年、処世訓集『フライダンクの分別集』を復刻。1837年、「ゲッティンゲン七教授事件」(前述)で失職した。グリム兄弟は、失職の身のままドイツ語辞典の編纂にあたったが、1840年プロイセンの国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム4世にかわると、兄弟はベルリン大学の教授として迎えられた。

ルートヴィッヒ・グリム

ルートヴィッヒ・エミール・グリムテンプレート:Lang-de1790年3月14日 - 1863年4月4日)は、グリム兄弟の末弟。兄たちと違い、大学までは進学できなかったが、カッセルの美術学校の教授をつとめるなど、画家として一定の評価を得ている。元々、グリムファンたちの間でしか知られない存在であったが、第二次大戦後、一般にも知られるようになった。

参考文献

関連項目

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外部リンク