黒田忠之

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テンプレート:基礎情報 武士 黒田 忠之(くろだ ただゆき)は、江戸時代前期の大名筑前福岡藩の第2代藩主。

生涯

慶長7年(1602年)11月9日、福岡藩初代藩主・黒田長政の長男として福岡で生まれる。黒田孝高(如水)の孫にあたる。

元和9年(1623年)、父の死去により家督を継いで藩主となる。当初、江戸幕府2代将軍徳川秀忠から偏諱として賜り、忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改め、また父の遺言で弟の長興に5万石(秋月藩)、高政に4万石(東蓮寺藩)を分知した。これにより石高は43万3千石となった。

忠之は自らの側近集団を組織し、倉八正俊郡慶成らを重用した。一方で「筑前六端城(領内主要6拠点の支城)」城主を始め、父・長政時代からの重臣と対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。ところが寛永9年(1632年)、六端城の一つ・麻底良城主・栗山利章(大膳)に「黒田氏謀反の疑いあり」と訴えられ(黒田騒動)、黒田氏改易の危機に立たされた。幕府が栗山は「精神的に異常である」と裁断したため改易は免れ、倉八・栗山は幕命により追放された。このこともあり、幕府の成瀬正虎安藤直次から連署で忠之へ書状が送られ、「年寄どもとご相談の上」と藩政を進めるよう促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、重臣の合議制色が強くなった。

承応3年(1654年)2月12日、福岡で死去。享年53。跡を長男・光之が継いだ。

参考文献

  • 『福岡県史 通史編 福岡藩(一)』 福岡県地域史研究所

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