黄櫨染御袍

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テンプレート:Infobox webcolor 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とは、天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束ののことである。この名前は染めてある色名からであり、「黄櫨染」とは黄色の中に赤色を混ぜた色で今の黄土色に近い色のことである。

概要

820年(弘仁11年)に嵯峨天皇により制定した。

中国の赭黄袍を起源としている(それ以前の天皇の袍は白色であったと推定されている)。なお中国では以降、戎服(唐の常服。日本の朝服に相当するもの。束帯はこれが和様化したもの)では黄色が尊い色とされ、の時代になって、赭黄袍は皇帝専用となった(『新唐書』ほか)。漢の『四民月令』逸文(『太平御覧』)によると「柘染」について「天子の色であるのは中央を意味する黄色に天子が南面する意味にちなむ赤を加味したもの」とあり、漢には赤みがある黄色が皇帝の色だったということになるが、はたして真正の逸文かどうかを検討する余地もあろう(明徳出版社刊本では採用していない)。

黄櫨染は真昼の太陽の色を象徴したものでもあり、天皇以外決して使用することができない色で「絶対禁色」と呼ばれた。

文様については907年(延喜7年)年に具体的な説明はないものの『西宮記』に引く『醍醐天皇御記』にさだめたことがみえ、『権記』長保二年七月四日条には「五靈鳳桐」とあり、古くから桐竹鳳凰文が用いられたことが分かる。中世の絵画では桐竹唐草に鳳凰を散らした文様の袍を描いた例もあり(東大寺藏「四聖御影」など)、これを古様とする説もあるが、文献的な裏付けはない。現存最古の後奈良天皇奉納の黄櫨染御袍(広隆寺所蔵)には「」「」「鳳凰」「麒麟」の4種類の文様があらわされていて、長方形の筥形文となっている。そしてこの形式が近世を経て現在まで続く(なお鈴木敬三は後奈良天皇の袍を麴塵とするが、当時桐竹文様の麴塵袍が用いられた記録がなく、不審である。なお近世の桐竹文の麴塵の御袍は光格天皇が石清水臨時祭再興時に復興させたものである)。

なお、筥形文の黄櫨染御袍を描いた資料は、御物の「天子摂関列図御影」の高倉天皇像(南北朝時代)が最古である。これには麒麟の存在が描かれないが、『権記』にいうところの「五霊」(五種類の霊獣)には麒麟も含まれており、鳳凰以外の組み合わせについては時代により変遷があったものと考えられる。また、江戸初期にはこの袍が断絶していたとする説もあるが、国立歴史民俗博物館所蔵『慶長十六年御譲位御服調進帳』によれば後水尾天皇即位に際して「きりたけ」の袍が調進されており、当時天皇の麹塵袍は牡丹唐草に尾長鳥であったから(広隆寺所蔵品)、黄櫨染の袍はこのときも調進されたとみられる。東山御文庫所蔵『黄櫨染御袍等御裂帖』によれば後西天皇の黄櫨染御袍使用が知られるから、結局黄櫨染御袍の使用の裏付けがないのは後光明天皇だけのようである。

元来は即位朝賀以外の重要な儀式に使用していたが、明治天皇即位のときに袞衣が廃止されて以降は即位にも使用されることになった。宮中三殿で行われる恒例の皇室祭祀のほとんどに使用し(神嘉殿でおこなう新嘗祭のみは、天皇は御斎服を使用)、「即位礼紫宸殿の儀」にも使用した。現代においてもこの規定が引き継がれ、即位の礼の中での最重要の儀式「即位礼正殿の儀」や立太子礼、宮中祭祀四方拝その他で着用されている。

染色

黄櫨染は非常に難易度の高い染色で、安定して色を出すことは不可能とも言われている。熟練工であっても毎回同じ色を染めることはできないため、歴代天皇の黄櫨染の御袍はすべて違う色をしている。

延喜式』によれば、「綾一疋、櫨十四斤、蘇芳十一斤、二升、三斛、薪八荷」とあり、山櫨の樹皮と蘇芳の芯材を使って染められたことが分かる。櫨染めはやや褐色がかった黄色に染まり、蘇芳はやや黒っぽい赤色に染まるため、仕上がりは鮮烈な日光の色と云うよりも深くて落ち着いた印象の黄褐色系から赤褐色系になる。

また、黄櫨染と麹塵(日常の御袍の色。紫草刈安で染める)を草木染めで再現すると、日光の下にあるときと灯火の下にあるときとで色調が変わる効果があることが、復元作業で証明されている。

近世の黄櫨染御袍の材質は固地綾で、裏は山科流は二藍平絹、高倉流は蘇芳平絹とする。天皇には宿徳装束(高齢者用の装束)の規定はないが、高齢になると裏に縹平絹も用いた。

参考

  • 福田邦夫『すぐわかる 日本の伝統色』東京美術 ISBN 4-8087-0784-5
  • 吉岡幸雄『日本の色辞典』紫紅社 ISBN 4-87940-549-3
  • 長崎盛輝『かさねの色目 平安の配彩美』青幻社ISBN 4-916094-54-9

関連用語

外部リンク