高須四郎

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テンプレート:基礎情報 軍人 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将正三位勲一等功二級茨城県(後の桜川村、現稲敷市)出身。

生涯

旧制土浦中学(現土浦第一高等学校)卒業、海軍兵学校35期、海軍大学校17期。

海軍ではイギリス勤務が多く、駐英武官、その後軍令部出仕兼海軍省出仕として五・一五事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。

中将時代には海軍大学校校長を務め、日中戦争勃発当時は第一航空戦隊司令官として上海地区で陸戦隊を支援している。のちには駐満海軍部司令官として、在地海軍兵力と満洲帝国海上部隊を統一指揮した。第五艦隊(のち第二遣支艦隊)として南支方面の封鎖作戦を担当。北部仏印進駐の際は、平和進駐方針を無視した富永恭次らの行動に反発し、護衛艦艇を引揚げる強硬手段をとった[1]。のち連合艦隊指揮下の第四艦隊内南洋担当)長官に転じた。

対米開戦が間近となった1941年(昭和16年)8月、指揮の利便性などから旧来連合艦隊司令部の兼任していた第一艦隊司令部が独立することとなったことから、初の専任の第一艦隊司令長官に任命される。

1944年(昭和19年)3月末に連合艦隊司令長官古賀峯一大将が殉職する事件(海軍乙事件)が起こった際には、当時南西方面艦隊司令長官を務めていた高須は後任の豊田副武大将が着任するまで一時的に連合艦隊司令長官代行として連合艦隊の指揮をとった。高須の指揮はあ号作戦に備えていた角田覚治第一航空艦隊小沢治三郎第一機動艦隊麾下の航空機を、米軍が上陸してきたニューギニア方面の攻撃に振り向けようとするもので、連合艦隊に混乱が発生している[2]

南西方面艦隊長官在任2年の間に病を得ており、内地に帰還後軍事参議官となったが、まもなく東京で戦病死した。墓所は青山霊園

長男は、戦時中に病死し、二男の敏行は、元日本大学経済学部教授。

人物評

駐在武官としての勤務や支援部隊の指揮官としての勤務が多かった事、日米開戦時に内地に待機しており、以後も戦場に恵まれず『呉艦隊』『柱島艦隊』と揶揄された第一艦隊長官であった事や、戦争中に戦病死した事から、他の提督に比べ華々しく活躍する機会に恵まれず、地味な提督として評価される傾向がある。

反面、知英派で当時の欧米事情に詳しく政治的に中立な立場を貫く一方、五・一五事件の後に、政党政治の崩壊を嘆き激昂した事、日独伊三国軍事同盟日米開戦に反対していた事や、一時的とはいえ連合艦隊司令長官代行として実戦指揮をとった事実から、決して凡庸な提督では無く、現実的な判断の出来る優れた海軍軍人の一人として評価する意見も多い。実直で清廉潔白な性格の持ち主で、山本五十六米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。

判士長を務めた五・一五事件の裁判で一人も死刑を出さなかった事が、後の二・二六事件の誘引になったという批判を終生気に病み、死去直前にも「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」と家族に胸中を吐露していた。

年譜

関連項目

出典

  1. 『井上成美』「支那方面艦隊参謀長時代」
  2. 『四人の連合艦隊司令長官』「古賀峯一の作戦」

参考文献

  • 井上成美伝記刊行会『井上成美』
  • 吉田俊雄『五人の海軍大臣』文春文庫
  • 吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』文春文庫
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧』芙蓉書房出版