順帝 (漢)

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順帝(じゅんてい)は後漢の第8代皇帝

概要

安帝の末年から権勢を振るっていた外戚の閻氏や側近の宦官の讒言により一時廃嫡されたが、それを憎んだ宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、皇帝となった。

擁立の功労者である孫程ら宦官達を侯(地方領主)に封じ、更に宦官への養子を認め財産を継承することを許可した。それまで一代限りの権勢であった宦官が桓帝の時大長秋となる曹騰が引退した以後は、次代の権勢継承が行われるようになった。そのため、後世には後漢の宦官禍は順帝より始まると評されることになる。

一方、皇后に梁氏を立て、その父である梁商大将軍として朝政に参加させた。梁商は専横を振るうことも無く、宦官と融和を図り朝政を運営した。しかし梁商が死去し、その子梁冀への大将軍の世襲を許してしまい、梁冀は朝政専断を開始し権勢を振るった。順帝は賢臣を起用し梁冀の専断を抑制しようとしたが、果たせないまま死去した。順帝の死後、梁皇后が「夙夜勤労」と形容されるほど必死に王朝再興のため奔走し、清流派官僚の李固などの人材登用を行ったが、梁冀はそれらの人材を次々と粛清している。順帝の梁冀に対する措置が不十分な結果、その後桓帝までの時代を梁冀が専横を振るう原因を創出している。

外交面では班超の子である班勇を登用するなどして、西域の17ヶ国を服属させた。しかし高句麗などからの攻撃を受け、対外的な安定は確立せず、国内においても災害や飢饉が絶えず、各地で反乱が頻発した。

生涯

安帝と側室の李氏との間の子として生まれるが、安帝の皇后の閻氏は嫉妬深い人物で、李氏は殺害されてしまった。

永寧120年)に皇太子に立てられるが、閻氏や安帝の側近グループの宦官の讒言により、延光3年(124年)に廃されて済陰王となる。

翌年である延光4年(125年)3月に安帝が巡察先で突然に死去し、閻太后と王聖(安帝の乳母)や大長秋江京ら安帝側近グループによる北郷侯(少帝)擁立が行われるが、少帝も急死した。閻太后と車騎将軍閻顯は江京ら親閻氏の宦官らと図り、喪を伏しつつ別の諸国王の子の擁立を図った。

反閻氏の宦官孫程ら19名は11月の地震に乗じてクーデターを起こし、閻顯や江京ら閻氏派の勢力を一掃し、劉保を擁立し帝位に就けた。

即位した順帝は閻顯らの処刑を実行し、少帝を諸国王の礼をもって葬った。司空劉授が免職となった。12月に陶敦が司空に任命された。

永建元年(126年)春正月、閻太后が死去し、2月に埋葬した。また、1月に太傅馮石太尉劉熹司徒李郃を免職とし、2月に桓焉を太傅、朱寵を太尉・録尚書事朱倀を司徒に任命した。隴西の鐘羌が反乱を起こし、護羌校尉の馬賢がこれを破った。秋7月に来歴を車騎將軍に任命した。8月には鮮卑が代郡に侵攻し、代郡太守の李超が戦死した。冬10月に司空の陶敦が免職となり、張皓がその後任となった。鮮卑の活動が活発化し、周辺の州郡の兵力の増強が命じられた。

永建2年(127年)2月、鮮卑が遼東と玄菟に侵略した。護烏桓校尉耿曄匈奴の南単于を率いて鮮卑を撃破した。夏6月、母の李氏に皇后を追尊した。西域長史の班勇と敦煌太守の張朗が焉耆、尉犁、危須の三国を討ち、これを破った。秋7月に日食が有り、太尉の朱寵、司徒の朱倀を免職とし、劉光のを太尉・録尚書事とし、許敬を司徒とした。

永建3年(128年)、相次ぐ天災を受けて巡察や救貧政策が採られた。9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。冬12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎將軍の来歴が罷免された。

永建4年(129年)の春正月、順帝は元服した。この年に長雨の被害が五州で出ている。秋8月、遣使の實覈が死去し、太尉の劉光と司空の張皓が免職となった。9月に龐參が太尉・錄尚書事となり、王龔が司空となった。冬11月、司徒の許敬が免職となった。鮮卑が朔方に侵攻した。 12月、劉崎を司徒とした。この年に会稽郡から呉郡を分割した。また拘彌国が使者を送ってきた。

永建5年(130年)の春正月、疏勒国、大宛国、莎車国が使者を送ってきた。国内では旱や蝗の害は続いた。冬10月には定遠侯の班始班超の孫)が陰城公主を殺害した罪で腰斬とされた。

永建6年(131年)の春2月、河間王の劉開が死去した。秋9月、護烏桓校尉の耿曄が鮮卑を追討し、これを破り、闐国の王が使いを送ってきた。12月、日南の葉調国と撣国が使者を送ってきた。

陽嘉元年(132年)春正月、梁氏を皇后とした。2月、海賊が会稽郡を襲撃し、句章・鄞・鄮の県長が殺害され、会稽東部都尉が攻撃を受けたため、周辺の県に兵士を集めさせた。3月、揚州の6郡において妖賊の章河らが49の県を襲い、長吏を殺傷した。秋7月、地動銅儀が製作された。鮮卑寇遼東。

陽嘉2年(133年)春2月、呉郡と会稽郡で飢饉が発生したため、種と食糧を貸し与えた。3月、匈奴中郎将の王稠に命じて左骨都侯らを率いさせて鮮卑を攻撃し、これを破った。夏4月、再び隴西南部都尉を設置した。京師において地震が勃発し、5月には詔勅が出された。司空の王龔が免職となり、6月に孔扶が司空に任命された。悪天候は収まらず。秋7月に、太尉の龐參が免職となり、8月に施延が太尉に任命された。鮮卑が代郡に侵攻した。

陽嘉3年(134年)3月、益州で盜賊が令長を人質にとり、列侯を殺した。夏4月、車師後部司馬が後部王加特奴らを率いて匈奴を討ち、大いに破り、季母を捕虜にした。秋7月、鐘羌が隴西、漢陽に侵攻し、冬10月に護羌校尉の馬続がこれを擊破した。11月、司徒の劉崎と司空の孔扶が免職となり、黃尚が司徒、王卓が司空になった。武都において塞の内外の羌族が屯官を攻撃し荒らした。

陽嘉4年(135年)春2月、宦官が養子を取り、封爵を世襲することを始めて認めた。謁者の馬賢が鐘羌を討ち、大いに破った。夏4月、太尉の施延を免職とした。外戚の梁商を大将軍に任命し、前太尉の龐參を太尉に復職させた。冬10月、烏桓が雲中に侵攻した。11月、度遼將軍の耿曄を蘭池に派遣し,諸郡の兵に援助させて、烏桓を退走させた。

永和元年(136年)春正月、夫餘王が来朝した。冬10月に承福殿で火災が発生し、順帝は御雲臺に避難した。11月、太尉の龐參が罷免された。12月、象林蛮夷が叛いた。元の司空である王龔が太尉になった。

永和2年(137年)春正月、武陵蛮が叛き、充県や夷道を侵略した。2月、広漢属国都尉が白馬羌を撃破し、武陵太守の李進が武陵蛮を撃破した。3月、司空の王卓が死去し、郭虔が司空となった。5月、日南の蛮が叛いて郡府を攻撃した。秋7月には九真、交阯の二郡の兵士が反乱を起こした。8月、江夏の盜賊が邾県の長を殺害した。冬十月、順帝は長安に行幸し、人民に施しをし、未央宮において三輔の郡守、都尉及官属と面会し労をねぎらった。12月には長安に戻った。

永和3年(138年)春2月、京師及金城、隴西において地震が起きた。夏4月に、九江の賊の蔡伯流が郡界を犯して広陵郡に至り、江都の長を殺害した。光祿大夫が金城、隴西に慰問に訪れ被害者をねぎらい税の免除を告げた。閏月には蔡伯流らは眾を率いて徐州刺史の応志に降伏した。。5月に、呉郡の丞の羊珍が反乱し郡府を攻撃し、太守の王衡を破り斬った。6月、九真太守の祝良、交阯刺史の張喬は日南の蛮を誘殺し、反乱を平定した。8月、司徒の黃尚が免職となった。9月、劉壽が司徒となった。冬10月、焼当羌が金城を侵攻し、護羌校尉の馬賢が之を擊破したが、羌族の反乱は相次いだ。

永和4年(139年)春正月、中常侍の張逵蘧政楊定らが罪を得て誅殺され、弘農太守の張鳳、安平相の楊告もこれに連座し獄死した。夏4月、護羌校尉の馬賢は焼当羌を討伐し、これを大いに破った。秋8月、太原郡で旱魃が起き、民が離散したため、光禄大夫が使わされ施しと税の免除が布告された。冬10月、上林苑で狩猟がなされ、函谷関まで行き帰還した。11月、広成苑に行幸した。

永和5年(140年)夏4月、南匈奴左部句龍大人の吾斯車紐らが叛き、美稷を包囲した。5月、度遼將軍の馬続が吾斯と車紐を討伐しこれを討った。匈奴中郎将の陳龜が南匈奴の単于を殺害した。且凍羌が三輔を侵略し、県の令長を殺害した。9月、扶風と漢陽に舞い礼して隴道塢を三百所に築き、屯兵を置かせた。太尉の王龔が罷免され桓焉が太尉となったが、その間にも且凍羌は武都を侵略し、隴関を焼いた。西河郡の居を離石とし、上郡の居を夏陽とし、朔方の居を五原とした。句龍の吾斯らは東の烏桓、西の羌胡を引きつれ、上郡に侵略し、車紐を単于とした。冬11月、使匈奴中郎将の張耽が使わされこれを擊破し、車紐らを降伏させた。

永和6年(141年)春正月、征西将軍の馬賢は且凍羌と射姑山において戦ったが、敗北し戦死した。安定太守の郭璜が獄死した。閏月には、鞏唐羌が隴西を侵攻し、三輔にまで及んだ。3月、武威太守の趙沖は鞏唐羌を討ち、之を破った。司空の郭虔が免職となり、趙戒が司空となった。夏5月、匈奴中郎将の張耽が派遣され烏桓、羌胡を天山において大いに破った。鞏唐羌が北地に侵攻した。8月、大将軍の梁商が死去し、河南尹の梁冀が大将軍となった。9月、諸種羌が武威に侵攻した。冬10月、安定の居を扶風とし、北地の居を馮翔とした。11月、執金吾の張喬を車騎将軍代行とし、将兵を三輔に駐屯させた。

漢安元年(142年)春正月、大赦を発布した。8月、南匈奴の左部大人の句龍吾斯は薁鞬臺耆らと反乱を起こした。侍中の杜喬,光禄大夫の周舉,守光禄大夫の郭遵馮羨楽巴張綱周栩劉班ら8人が州郡に派遣された。9月、広陵の盜賊の張嬰らが郡県を侵攻した。冬10月、太尉の桓焉と司徒の劉壽が免職となり、車騎將軍代行の張喬も罷免された。11月、趙峻が太尉、胡広が司徒となった。広陵の賊の張嬰らは年内の内に太守の張綱に降伏した。

漢安2年(143年)春2月、鄯善国が使いを送ってきた。夏4月、護羌校尉の趙沖と漢陽太守の張貢は焼当羌と参楽において戦い、これを破った。6月、南匈奴において守義王兜樓儲が単于となった。冬10月の閏月、趙沖が焼当羌と阿陽において戦い、これを破った。11月、使匈奴中郎将の馬寔は刺客を送り句龍吾斯を殺害した。12月、楊州と徐州の盜賊が燒城寺を攻め、吏民を殺傷した。

建康元年(144年)正月、前年に涼州で180回も地震があったことを受けて詔勅が下され、鎮撫のために光禄大夫の派遣が決定された。3月 、領護羌校尉の衛琚は叛羌を追討し、これを破った。南郡と江夏の盜賊が城邑を略奪したが、州郡が之を追討し平定した。夏4月、使匈奴中郎将の馬寔は南匈奴左部を攻撃し之を破ったため胡羌や烏桓はことごとく降伏した。皇子の劉炳(冲帝)を皇太子とし、建康と改元し大赦を天下に発布した。8月、楊州と徐州の盜賊である范容周生らが城邑を略奪したが、御史中丞の馮赦が遣わされ、州郡の兵士を督してこれを討った。

順帝は玉堂前殿に死去した。30歳であった。


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