陳祗

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陳 祗(ちん し、? - 258年)は、中国三国時代蜀漢の政治家。奉宗豫州汝南郡の人。叔祖父(祖父の弟)は許靖。子は陳粲・陳裕ら。『三国志』に独立した伝はなく、董允伝に付伝されている。

略歴

彼は幼少の頃に両親ら家族を亡くしたため、母方の叔祖父に引き取られてその家で成長した。20歳で名を知られるようになり、昇進を重ねて選曹郎までになった。謙虚であるが威厳のある容姿をしており、天文・暦・占いにも通じていた。

費禕にその性格と才能を高く評価され、246年に董允が死去すると、費禕の推挙により後任の侍中に抜擢された。その後、251年呂乂が死去すると尚書令に昇進し、鎮軍将軍となった。

253年正月、国政の中心であった費禕がの降将の郭循によって暗殺された。しかし陳祗の上席である姜維は、軍事のため外地にあることが多く、留守がちであった。このため費禕亡き後は、陳祗が劉禅を補佐し蜀の国政にあたることとなった。陳祗は董允と異なり、劉禅に諫言することもなく、また宦官黄皓が国政に関与することを容認した。蜀志を著述した蜀の旧臣の陳寿は、「劉禅が亡き董允を事追うごとに疎ましく思うようになった一因は、陳祗と黄皓にあった」と評し、また「陳祗の政治は皇帝にへつらい、宦官におもねるものであった」という評価を下している。

また、尚書の龐宏龐統の嫡子)が不遜な態度をとったため、涪陵太守への就任を阻止したという記述もある。さらに譙周(陳寿の師)が、姜維の連年の軍事活動により、民衆が疲弊するのを憂え『仇国論』をしたためたのも、陳祗との議論がきっかけであったと言われる。

258年に没した。劉禅は陳祗の死を悲しみ、言葉を発する度に涙を流した。ありし日の陳祗の働きを激賞する詔勅が残されており、そこには陳祗の存命時の行為に相応しく、かつ美しいとして「忠侯」を与えたと記されている。劉禅は長子の陳粲に関内侯を与え、次子の陳裕を黄門侍郎に任命した。後の西晋の時代、陳裕は羅憲の推挙により仕官している。

なお、後主伝によると、黄皓がはじめて政治的な権限を手中にしたのは258年だとある。

小説『三国志演義』には登場せず、譙周が『仇国論』をしたためる場面でも陳祗の名は見当たらない。