里親

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里親(さとおや)という名称自体は古く平安時代から存在し、第一義は「やしない親」「しとね親」である[1]

そこから派生して、通常の親権を有さずに児童養育する者、見捨てられた児童の引き取り手、見捨てられた動物の引き取り手など里親と呼ぶ。最近では、環境保護目的で森林を買い取る者や、自発的に公園・道路の管理・清掃などをする者などを、「森林の里親」「公園・道路の里親」等と呼ぶ。

現在では、通常の親権を有さずに児童を養育する者は、個人間の同意の下で児童を養育する「私的里親」と、児童福祉法に定める里親制度の下で、国と地方自治体から児童を養育するに充分な養育費と里親手当てを受給して、児童相談所から委託された要保護児童を養育する「養育里親」「専門里親」などがある。また、児童養護施設などが独自に採用してる制度で、児童養護施設の収容児童を週末や夏季、年末年始のみ預かる者を、「週末里親」「季節里親」などと呼ぶ。

日本における里親慣習の歴史

社会慣習として育まれた制度

日本では里親は古くから存在し、その歴史は平安時代中期まで遡る。当時、貴族が村里に子女を預ける風習に由来するもので、里子は「村里に預けた子」を意味する言葉であった。

やがて、他人に預けて養育を託した子供のことを里子、里子を預かる者を里親と呼ぶようになり、武家や商家、農村など、社会のあらゆる階層に広まった。

養子縁組は、血縁関係とは無関係に親子関係を発生させる制度で、奈良時代に法制化されて以降、現代まで途絶えることなく明文化された法制度として存在する。氏姓制度家父長制度の確立に伴い、養子縁組は家制度を維持するため、あるいは政治的意図の下に行われる性質のものであるため、強制力のある法として明文化する必要があった。

それに対し、里親を定義づける法律は制定されておらず[2]、里親は社会通念上の概念、もしくは社会慣習の一形態に過ぎない[3]

里親慣習は、里親と里子の間に親子関係が発生しないこと、里子は家督や財産などの相続権を有さないことから、養子縁組のような明文化された法制度に比べて、より緩やかな社会慣習として市井の中で発展した制度といえる。

里親慣習の形態

里親慣習は、生みの親と里親の間の同意の下に行われる、契約型の慣習である。

この慣習が発生した平安時代は、里親は無料か極めて安価な養育料で里子を預かった。当時、身分の高い人の子を預かるのは名誉なことであり、里子が実家に帰った後も、里親は節句などの折に里子を訪問して貢物を献上するなど、里子との交流を生涯重んじ、成長した里子が里親のところに訪問するのを、ありがたいことと受け止めた。その名誉を前に、養育料は問題にならなかった。

やがて、生みの親が里親に金銭を渡し、子の養育を委託する形態が主流を占めるようになった。子が里子に出される理由は、母乳不足、迷信に基づく慣習、私生児の処置、母親の死亡、貧困による口減らしなどが挙げられる。金銭の受諾は、子を託す時に一度だけ行われる場合もあれば、月いくら、日当いくらというように、子が預けられている間、継続的に行われる場合もあった[4]

また、漁農村では労働里子の慣習が見られ、里親は里子に衣食住を提供し、その代償として、里子は労働力を提供した。この慣習は、都市部の工商階級にも散見し、奉公人との区別がつきにくいが、奉公人は、雇用人が労働対価を支払う労働契約に基づく関係であるのに対し、里子の労働対価は「育てて貰う代償」に相殺された。

いずれの場合も、“多くの児童の奴隷化、労働力の搾取、あるいは児童虐待、虐殺、養育料搾取などの形をとるなど、まことに忌まわしい事実が、広義の里子として存在した”といわれ[5]、平安時代の貴族的因習とは掛け離れた慣習として広まり、定着していた実態が窺える。 テンプレート:節stub

里親を主題にしたフィクション

テレビドラマ

関連文献

脚注

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  1. 三省堂『大辞林』による。
  2. 昭和23年に制定した児童福祉法で、主に戦争孤児の救済策として里親制度が制度化されたが、児童福祉法に定める里親制度によらない里親(いわゆる私的里親)も多数存在し、里親自体の法的定義はみとめられない。
  3. 児童福祉法に定める里親制度下の「養育里親」などは、里親の概念から派生した児童の社会的養護の一制度、その呼称に過ぎず、里親自体に法的定義を付与するものではない。
  4. 現在の児童福祉法に定める「養育里親」なども、里子を養育するに充分な養育費のほか、様々な名目の金銭が里親に支払われることから、この慣習に則った制度であるといえる。
  5. 日本児童福祉協会、三吉明編『里親制度の研究』より引用。

関連項目

外部リンク

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