道行旅路の花聟

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道行旅路の花聟』(みちゆきたびじのはなむこ)とは、歌舞伎および日本舞踊の演目のひとつ。通称『落人』(おちうど)。

解説

天保4年(1833年)2月、江戸河原崎座で『仮名手本忠臣蔵』が上演されたが、このときの番付を見ると「十一段の裏表新狂言二十二幕」とあり、これは『仮名手本忠臣蔵』全十一段を「表」すなわち本来の幕とし、その段毎に「裏」として新しい幕を付け加えるという「裏表」の趣向で演じられたもので、『道行旅路の花聟』はこのとき三段目の「裏」として出された清元節による所作事であった。三升屋二三治の作詞。内容は、腰元おかると逢引していてお家の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、おかるの実家のある山城国山崎へと、おかるとともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむというもので、天保4年初演のときの役割は早野勘平が五代目市川海老蔵、おかるが三代目尾上菊五郎、鷺坂伴内が尾上梅五郎。歌舞伎所作事の代表的な演目として知られ、現在『仮名手本忠臣蔵』が通しで上演される際には、四段目のあとに上演される。

『落人』の通称は、「落人も、見るかや野辺に若草の、すすき尾花はなけれども…」という清元の語り出しで始まることによるが、これは義太夫浄瑠璃けいせい恋飛脚』の「新口村」にある文句を少し変えて転用したものである。その他の詞章については『仮名手本忠臣蔵』三段目の「裏門」から多くを拝借している。

本来は花道からおかる勘平が登場したが、現在では本舞台で浅葱幕を切って落とすと一面の菜の花の春景色となり、遠くに富士が見えるのを背景に、お軽と勘平が立っていることが多い。おかるは矢絣に縦やの字帯の御殿女中のこしらえ(場合によっては景事であることを重んじて好みの振袖)、勘平は黒の紋付の着流しに東からげで、場所は戸塚山中という設定である。ただし六代目尾上梅幸によれば、おかるの着付けはこの場では矢絣にするのが本来で、御殿模様などにするのは上方の型によるものだろうという。

「落人も…」の浄瑠璃でよろしく振りあって、勘平はしばしここで旅の疲れを休めようとおかるに言い、やがて二人は将来のことを語りあう。勘平が武士としての不心得、主君塩冶判官へ申しわけなさのあまり、ここで切腹すべく刀を抜こうとすると、おかるは刀を取り上げ、「それその時のうろたえ者には誰がした」と自分にも責めはある、短気をおこさずともかくも自分の在所にまでいっしょに落ちのびてくれ、あなたを亭主として充分暮しのたつようにしてみせるとかき口説く。この口説きがひとつの見せどころ、聞きどころである。

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『道行旅路の花聟』 二代目尾上松緑の鷺坂伴内。

このまま腹を切ればわたしも生きておれぬ、それでは人は勘平は不義の心中をしたと言うだろうというおかるの言葉に、生きていればお詫びのかなう日もきっとこようと勘平も気をとりなおし、道を急ぐことにする。折からそこへ高師直の家臣でかねてよりおかるに横恋慕する鷺坂伴内が、襦袢ひとつに襷がけ、鉢巻の格好で手勢(花四天)を引きつれ登場し、おかるをさらってゆこうとする。だが勘平の武勇にはかなうべくもなく、伴内たちは散々にやっつけられる。「所作ダテ」と呼ばれるはなやかな場面である。

「塒(ねぐら)を離れ鳴く烏、可愛い可愛いの夫婦(めおと)づれ、先は急げど心はあとへ、お家の安否如何ぞと、案じゆくこそ道理なれ」の浄瑠璃で勘平はおかるを連れ、花道にかかる。そこへ両人をなおも追おうとする伴内が、花道ツケ際で引かれてくる幕に阻まれ、そのまま上手側に押されて引っ込む。この演目に限り幕が舞台下手から上手に向かって引かれ(通常は逆)、いつの間にか伴内は客席側へ出た幕引きになってしまうというめずらしい演出で、そのあと幕外で勘平がおかるを連れてよろしく向う揚幕へと入る。

伴内は道外方の役柄で腕達者な俳優が受け持つが、幹部級も御馳走(特別出演)で演じることも多く客席を喜ばせる。

参考文献

  • 黒木勘蔵編 『日本名著全集江戸文芸之部第二十八巻 歌謡音曲集』 日本名著全集刊行会、1928年 ※清元『道行旅路の花聟』所収
  • 『舞踊名作辞典』 演劇出版社、1991年
  • 服部幸雄編 『仮名手本忠臣蔵』〈『歌舞伎オン・ステージ』8〉 白水社、1994年
  • 早稲田大学演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション ※天保4年河原崎座の『仮名手本忠臣蔵』の番付の画像あり。

関連項目