足利頼純

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足利 頼純(あしかが よりずみ / - よりあつ、足利 頼淳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将足利氏の一門。足利義明の次男で小弓公方家の当主。喜連川頼純と呼ばれる。

生涯

天文7年(1538年)に国府台合戦で父・義明が戦死すると、安房国里見氏を頼って落ち延び、その庇護を受けた。幼時には石堂寺に預けられたとみられている。

成人後は小田喜城に滞在したとも、後に諸国を流浪したともいわれているが詳細は不明。里見義頼梅王丸の家督争いの際には義頼に偏諱を与えたとする見方がある一方(佐藤博信説)でそれに続く義頼と正木憲時の争いの時には後者についたとする見方がある(千野原靖方説)。北条氏豊臣秀吉による小田原征伐によって下総国から撤退すると、その機に乗じて里見義康とともに父が住した小弓城を奪還した様である[1]

娘の鳩子(のちの月桂院)が秀吉の側室となったことと、足利氏の血を引くことから大名として復帰を許され、嫡男の国朝が下野国喜連川城を領した。ほかに娘として鎌倉東慶寺十九世瓊山法清がいる。

慶長6年(1601年)死去。

脚注

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参考文献

  • 佐藤博信「戦国期の関東足利氏に関する考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年) ISBN 978-4-87294-561-4)
  • 山中長俊増田長盛に充てた書状では、頼純が小弓に在城していたように記されている。