足利頼氏

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足利 頼氏(あしかが よりうじ)は、鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府御家人。父は足利泰氏。母は北条時氏の娘。初名は足利利氏(としうじ)。

略歴

足利泰氏の三男として生まれるが、母が北条得宗家出身であることから嫡子に指名され、父・泰氏の跡を継いで足利氏の当主となり上総三河の二ヶ国を領した[1][2]。『吾妻鏡』における初見は建長4年(1252年11月11日条の「足利大郎家氏 同三郎利氏」の箇所である。家氏はこれまで『吾妻鏡』に寛元3年(1245年8月15日条~建長3年(1251年)8月15日条までの7年間、11箇所に亘って「足利三郎家氏」と記されてきた[3]が、前述の記載では家氏の通称が「大郎」(=太郎)で、「三郎」を名乗る人物が利氏(頼氏)に変わっている。これは、「三郎」が兄弟の順序を表す通称ではなく、足利氏嫡流の家督継承者が称する称号であり[4]、母の出自の違い(家氏の母は名越朝時の娘)に伴って建長3年(1251年)から同4年(1252年)の間で「三郎」を称する足利氏の嫡子が家氏から利氏(頼氏)へ変化したことを表すものであると考えられている[3]

建長8年(1256年)8月には母方の伯父で執権の北条時頼の長男・宝寿(のちの北条時輔)の元服の際の烏帽子親を務めた[5][6][7][1][8]。尚、この時もまだ頼氏は利氏と名乗っており、宝寿はその偏諱を受けて「時利」と名乗っている[8]正嘉元年(1257年)には、将軍御所の廂番、格子番として、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王の近臣となった[5][7]。正嘉3年/正元元年(1259年)には上総国守護として京都大番役を務める[5][7]。正元2年(1260年)には治部権大輔となり[1][2]、この時に時頼から偏諱を賜って[9]頼氏に改名したとされている[10]

頼氏は弓矢に優れ、鶴岡八幡宮での流鏑馬などで活躍している[5][7]が、生来から病弱だった[7]ために弘長元年(1261年8月15日の鶴岡八幡宮での行事(放生会)を病気で辞退した[7][11]記述を最後に史料から姿を消した。没年にも異説が多く、弘長2年(1262年)説[7][12]弘安3年(1280年)説[13]永仁5年(1297年)説[14]があるが、臼井信義によれば、文永6年(1269年)4月に子の家時鑁阿寺に与えた定文条々(寺規七ヶ条)があることから家時がこの段階で足利氏の当主であったとみられること、1280年説を採った場合に頼氏の生母が宝治元年(1247年)に死去していることと矛盾すること、1280年説・1297年説が前述の通り建長4年(1252年)の段階で頼氏が幕府に出仕していることが窺える『吾妻鏡』の記述に矛盾することから、1262年説が有力であり、前述の鶴岡八幡宮放生会への供奉を辞退したことがこの説を裏付けるものであるとしている[15]

尚、正室はいないとされてきたが、北条時盛の娘が正室であったとされる資料がある。しかし頼氏がこの正室との間に子をもうける前に死去したため、没後は、側室(家臣・上杉重房の娘)との間に生まれたとされる家時が跡を継いだ。その段階では家時はまだ幼少であったとされ、その成長まで長兄の家氏が家督を代行した。

偏諱を与えた人物

利氏時代
  • 北条時(のちの時輔、前述の通り頼氏(利氏)が烏帽子親を務めた)
頼氏時代

登場する作品

脚注

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参考文献


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  1. 1.0 1.1 1.2 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「okutomi092」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2.0 2.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「kotani1980」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  3. 3.0 3.1 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13)。「足利大郎家氏」の初見は建長四年四月一日条。 ちなみに、『吾妻鏡人名索引』では「三郎家氏」を"利氏の誤りならむ"としているが、建長4年の段階になっていきなり「三郎」の(実名)が変化し、別に全く同じ名を持つ「大郎家氏」が現れるのは不自然であるとしている(紺戸淳論文(同前、p.13))。
  4. 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13)。『尊卑分脈』によれば、曽祖父・義兼、祖父・義氏、父・泰氏が代々「三郎」を称していた(前田治幸 「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(田中、2013年、p.181~184))。この頃の足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあり(臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(田中、2013年、p.67))、子の家時や曾孫の高氏(尊氏)も母の実家が北条氏ではなく上杉氏であって本来は家督継承者ではなかったため、「太郎」を称していた。
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  8. 8.0 8.1 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.12),山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」脚注(12)(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.181)より。後者の山野論文では、加えて利氏が将軍(当時は宗尊親王)或いは北条氏(北条時頼)から指名されて烏帽子親を勤めた可能性があることが示されている。
  9. 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.67),紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)。 鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主のは「得宗の当主の偏諱通字の「氏」」で構成されていた(田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、p.25))。紺戸論文では、1256年8月の段階では「利氏」と名乗っていて同年11月に時頼は執権職を辞したため、その間に改名したとしていた(紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.12系図))が、臼井論文など近年の研究では時頼が執権を辞した後の正元2年(1260年)に改名したとする見解が示されている。この当時も"得宗家の当主は時頼"であったため、その「頼」の字を受けたと考えても矛盾はない。得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163))、得宗家当主は執権職を辞した後でも有力御家人に偏諱を与えることがあったことが窺える。紺戸論文では、足利氏の嫡子が家氏から利氏に替わり、得宗の時頼にとってその利氏との関係を緊密にする最も簡単な方法が、自身の「頼」の字を下賜して利氏を改名させることであったとしている(紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.13))。
  10. 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(p.63)、小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(p.119)。( )内は田中、2013年での頁数。尚、同年には北条時利が「時輔」と改名している。
  11. 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.63)。
  12. 頼氏の開基した足利吉祥寺の位牌にはこの年の4月24日に没したとある(『足利市史』および 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.64))。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「足利頼氏」の項 ではこの年月日に23歳で没したとする。
  13. 尊卑分脈」ではこの年の4月7日に23歳で死去、「足利系図」(『続群書類従』所収)ではこの年に33歳で死去したとされている(臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.63))。
  14. 鑁阿寺の位牌や「新田足利両家系図」では、この年の6月9日に40歳で死去したとする(臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.63~64))。
  15. 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中、2013年、p.63~66)。同箇所では頼氏の没年を1262年とする理由について、子である家時の没年との関係でも見解を示している。家時については足利家時の項を参照されたい。
  16. 武家家伝_山内上杉氏より。
  17. 田中、2013年、P19・33-35・43 が示す、新田氏歴代当主が足利氏より「氏」の字を賜っていたとする説より。