落合信子

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落合 信子(おちあい のぶこ、1944年9月18日 - )は、タレント落合博満の妻。落合福嗣の母。長野県飯田市出身、飯田女子高等学校卒業、血液型A型。

来歴

  • 高校を卒業後上京し、貴金属の販売員を経て、ホステスをしていた1980年頃に当時ロッテオリオンズに在籍していた博満と知り合い結婚。1987年8月20日に長男・福嗣が誕生。

主なエピソード

  • マスコミ、外部に対しては夫のことを「落合」と呼んでいる。
  • ロッテ時代、一軍半であった時期、スナックの客であった博満に「あんた一体何がしたいの?」と聞くと、「三冠王になりたい」と答え、信子は「じゃ、あんた歯治しなさい」と数百万円を提供して歯の治療・矯正をさせた。
  • 1982年に博満が最初の三冠を獲った時、本塁打数が32本だった。本塁打数を増やそうと悩む落合に「ホームランいっぱい打っているのは、ブーマーバース門田博光さんみたいな太っている人じゃない?太りなさいよ!」という理由で翌日から食卓には相撲部屋並みの料理が並んだ。
  • 博満が試合でノーヒットの時は必ずおかずにタコを出したと自身の著書で話している[1](他のプロ野球選手はゲンを担ぐためタコは食べないといわれている)。
  • 1985年オフのロッテ退団騒動の時、ある番記者が信子本人のコメントが欲しいということで、自宅にて取材に答えた。その時の「落合は野球以外のことに煩わされると『引退します』と言いかねない」という談話が、どういう訳か「私が落合を引退させる」という記事になり、博満が大激怒し「明日引退する!!記者会見を開く!!」という騒動になったことがある。
  • 博満の打席をテレビ中継で見る際、画面に定規をあて、打席での腕の構えや足の位置、スイングが波を打っていないかなど細かくチェックし、帰宅した博満に好調時とのズレを逐一報告していた。
  • 博満がスランプに陥った時に「ストライクはあの狭いホームベースの上を必ず通るんでしょ。じゃあそこを通ったボールだけを打てばいいんじゃない」とアドバイスをしたところ、気が楽になったのか次の日から落合はスランプを脱したという。
  • 博満のロッテオリオンズ在籍時から東京に現在の居を構えた都合、中日での現役時代(1987年1993年)と、2004年からの監督就任時には博満に単身赴任をしてもらっていたが、頻繁に名古屋へ訪れ(川崎球場ナゴヤ球場東京ドームナゴヤドーム)、2005年からは息子の勧めもあり、名古屋に住み込んで夫を陰から支えていた。
  • 息子の福嗣共々、ナゴヤドームに足を運び、一般のファン同様にレプリカユニフォーム(当然夫のもの)に身を包み、頭にはファングッズの「ドアラの耳」を付け、自軍ベンチの真上から観戦している。
  • テレビ等で見る姿とは違い、選手やその家族、スタッフへの気配りも上手く、中日がリーグ優勝(2007年は日本一)した際には、毎年ビールかけにも参加している。2004年の祝勝会の席でもビールかけの会場に息子・福嗣と一緒にいた。しかし、福嗣が当時高校生だったことをすっかり忘れていたようで、そのままビールかけに参加させ、全身ビールでびしょ濡れになった。この件では福嗣が国士舘高校野球部の部員であったことに加え、このシーンが全国にテレビ中継されていたため、さすがに高野連も看過できず、後に親子ともども厳重注意を受けた(厳密にはビールかけについてではなく学生野球憲章で野球部員のプロ選手との写真撮影やテレビ出演などを禁じていたため)。
  • 他球団の選手とも交流が有、現役時代博満と本塁打王争いをしていた秋山幸二に「いつまでも主人のいいライバルでいてくださいね[2]と声を掛けたことがある。

テレビ出演など

時間を経るとともに、博満の夫人ということ以外にも特異なキャラクターを買われ、TVなどにも1人でゲストとして出演することが増えていった。一番出演が増えたのが、一連のミッチー・サッチー騒動時である。この騒動が長引くにつれ、当時の関連主要人物の1人としてテレビ番組にひっぱりだこであり、アクの強いキャラクターの中で、主に正論を発する役割を担った。

出演番組

テレビCM

  • アオキーズ・ピザ(2006年)「ドラゴンズ応援キャンペーン」実施期間中に放送。息子である福嗣と共演した。

著書

  • 悪妻だから夫はのびる―男を奮い立たせる法(1986年)
  • 天下の悪妻「亭主しつけ法」(1987年)
  • 悪妻だからまだまだ夫はのびる―男への鞭の入れ方(1991年)
  • 一心同体―愛と人生、成功のセオリー(2004年)

その他

巨人・落合誕生秘話

1993年シーズンオフより導入されたFA権を行使しようか悩んでいた落合に対し「これまで(年俸調停、初の1億円、2億円、3億円プレーヤーなど)野球選手のステイタスを向上させてきたあんたが先陣を切らないでどうすんのよ!」と半ば強引に行使させた。その結果、プロ入り前の相思相愛の関係であった長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツ(巨人)に移籍する。

巨人・退団時秘話

1996年オフ、清原和博の巨人へのFA移籍が取り沙汰されると、落合だけでなく夫人の発言や動向に注目が集まるようになる。当初、落合本人対して十分な説明なく清原の入団交渉が進められているのではないかという印象を持った夫人は反発の姿勢を見せ、スポーツ新聞一面に、落合夫妻の自宅前での写真入りで「おっかあ怒った」などと報道された。結果的に守備位置がかぶる落合は、出場機会を選び、巨人からの退団を決断。清原が落合を追い出す形となった。落合の名誉を保ちながら綺麗な形で退団させるかについて球団は苦慮し、渡邉恒雄オーナー自らが、落合と会見(一種のセレモニー)まで行っている。信子はこの場に同席し、オーナーに花束を渡されている。この模様はテレビでも大々的に取り上げられた。このような席に、選手夫人が出席することは極めて異例と言っていいだろう。

中日・落合博満監督誕生秘話

中日の球団から夫宛てに「中日の監督を務めて貰いたい」との電話が掛かってきた。落合は進学を控えていた長男のこともあり、断ろうとしていたものの返答できず、躊躇していたが、優柔不断になっていた落合に怒りを発し、「何でもやってみなさいよ」と叱咤激励し、広告の裏にマジックペンでGOと書いて承諾するように指示、これを見た落合が「はい、分かりました」と答え決意するに至った。また落合引退後、毎年ストーブリーグに入るたび「落合宛に新聞の勧誘は来ないかしら(新聞社を親会社に持つ読売、中日の事)、ハムやチョコレートのお歳暮は来ないかしら(日本ハム、ロッテ)」と言っていた。

脚注

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  1. 悪妻だから夫はのびる 男を奮い立たせる法
  2. テンプレート:Cite news