結城政勝

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結城 政勝(ゆうき まさかつ)は下総国戦国大名結城氏の第16代当主。

文亀3年(1503年)、第15代当主・結城政朝の子として生まれる。

通説では大永7年(1527年)、父から家督を継承したとされてきたが、近年では政直という兄がおり、その死をうけて天文年間初め頃(1532年前後)に結城氏を相続したとされている。

家督相続後は父同様、積極的な領土拡大政策を行い、佐竹氏小田氏宇都宮氏とたびたび抗争した。北条氏康と結んで宇都宮氏の小栗城を奪い、海老島の戦い小田氏治を破り、領土を下総から下野、さらには常陸にまで拡大した。天文8年(1539年)には那須政資那須高資の内紛では、高資を支持して佐竹・小田・宇都宮氏と戦っている。ただしこれらの事跡は隠居した政朝によるものといわれており、天文16年(1547年)に父が死去すると、宇都宮尚綱の侵攻を受けているが、撃退している。

政勝の最大の功績は領土拡大よりも有名な分国法である「結城氏新法度」を制定したことにあった。弘治元年(1555年)に定められたこの法は、飲食や衣類にまで及ぶ具体的な規定や、喧嘩口論に関する罰則などが定められた斬新的なものであったと言われている。

政勝は後継者に恵まれず、唯一できた実子・結城明朝は天文17年(1548年)に父に先立って病死している。水谷正村に嫁した政勝の娘・小藤姫も、女子を出産した直後に死亡した。そのため弟・小山高朝の3男・結城晴朝を養子に迎えている。

明朝の死後、政勝は出家したが、晩年は病気がちであり、小田氏治の反撃を受けて領土の一部を奪われている。永禄2年(1559年)8月1日に死去。享年57。後を養子の結城晴朝が継いだ。

絵を良くしたらしく、しばしば自画像などを描き、例えば茨城県の大雲寺には天文21年(1552年)の年記をもつ自画像が残る。

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