細川持隆

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細川 持隆(ほそかわ もちたか)は、戦国時代武将細川氏一門阿波守護

明応6年(1497年)、細川之持の子として生まれる。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。細川高国と細川本家当主の座を奪い合っていた細川晴元(持隆の従兄弟)をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。ところが、晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して晴元から離反して阿波に帰国してしまった[1]。その後、将軍足利義晴の仲裁で晴元と和解する一方で、足利将軍家の連枝である足利義維を阿波に迎え入れた。

天文8年(1539年)、赤松晴政(政村)の要請を受けて備中に出陣し、出雲尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。

天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、天文22年(1553年)に長慶の弟・三好義賢によって見性寺において殺された(勝瑞事件)。享年57。

勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが義賢に漏れたとする説、阿波国内での義賢の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが義賢に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが義賢に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・義賢と対立するに至った背景には不明な点が多い[2]

脚注

  1. 『二水記』天文元年3月13日条
  2. 若松、2013年、P441-446

参考文献

  • 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版(原著は2000年私家版)) ISBN 978-4-86403-087-8

関連項目

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