福島高晴

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福島 高晴(ふくしま たかはる、1573年天正元年) - 1633年10月27日寛永10年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名大和宇陀松山藩主。別名に正頼。通称は助六郎。現在の愛知県あま市出身。福島正信の次男。母は豊臣秀吉の叔母。兄に福島正則がいる。正室は村井貞勝の娘、継室は村上通康の娘。子に正晴(長男、別名高経)、高広(次男)、娘(久留島長親正室)、娘(五条為適室)、娘(仏照寺某室)、娘(藤堂雅久藤堂高虎家臣)室)、助六。

生涯

兄と共に従兄にあたる秀吉に仕え、文禄3年(1594年伊勢国長島に1万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与して会津征伐に従軍し、西軍が挙兵すると本国に戻って西軍に与した氏家行広(桑名城主)を攻めた。その功績により戦後、大和宇陀松山3万石に加増移封される。宇陀松山移封後は、宇陀松山城の改修や城下町の整備に取り組んだ。

しかし慶長20年(1615年)、大坂夏の陣豊臣家に内通していた嫌疑(密かに兵糧を大坂城に入れていた説あり)をかけられて改易される。ただし嫡子の正晴(高経)の子・忠政は500石を与えられて名跡存続を許された。その跡を養子の定正前田利意の子)が継ぎ、正武正胤と続くが、正胤は博奕の罪により遠島となった。

改易後は道牛と号し、伊勢山田に蟄居、その生活は貧困を極めたという。寛永10年(1633年)9月25日、赦免されることなく在所にて61歳で死去した。

テンプレート:宇陀松山藩主