石窟庵

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テンプレート:日本の寺院 テンプレート:Infobox 石窟庵(ソックラム)は、大韓民国慶尚北道慶州市にある仏教遺跡吐含山の麓にある。元々「石仏寺」と呼ばれていたが、「石窟」「趙家寺」などを経て、「石窟庵」と呼ばれるようになったのは日本時代以降である。

1962年12月20日大韓民国国宝第24号に指定された。また、1995年に石窟庵から約4キロメートルほど離れた仏国寺とともに、「石窟庵と仏国寺」として世界遺産(文化遺産)に登録された。

歴史

建立

新羅景徳王恵恭王の時代の宰相だった金大城700年 - 774年)が自分の父母のために「石仏社」を建立した、と高麗時代の『三国遺事』に記されており、石仏社が仏国寺の位置に近いことから石窟庵のことであると考えられている。751年(景徳王10年)に建立が開始され、774年(恵恭王10年)に完成した。[1]その後、儒教を中心とした朝鮮時代が500年以上続き、仏教は弾圧されたため永らく放置されていた。

日本による補修

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発見された当時の石窟庵

1909年、郵便配達員が配達のため吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われ山中の洞窟に逃げ込んだ。その洞窟の中に偶然仏像を発見した。当時の石窟庵は崩壊寸前で、倒壊の恐れがあった。天井が抜け落ち、仏像に直接雨が当たり、周囲の仏像の配置もすでに不明で、全体の半分以上が土に埋もれていた。

日本統治時代の1913年から1915年にかけ、日本により三度にわたる大規模な修復工事が行われた。最初の補修後に湧水が発見され、排水溝が設置された。韓国では、日本の補修でセメントを使用した結果、換気が難しくなり、石窟内に溜まった水によりセメントが溶かされて花崗岩の彫像が侵食されたり、本尊仏の下の地下水を集めて排水する機構が失われて地下水で冷やされた石に水分が凝固するなどの問題が生じた、としている。しかし、1944年には、現地調査に基づく石窟庵研究書である米田美代治の「朝鮮上代建築の研究」が発行されており、補修後20年を経た日本統治時代終盤でも石窟庵に異常はなかったと考えられる。 京城で展示するために分解移動した後、復元を誤ったためにいくつかの石材は余分になり、元の姿が失われることとなった。

韓国による補修

朝鮮戦争前後の混乱期に再び放置されたが、1961年から1963年にかけて韓国の文化財管理局の主導で補修工事が行われた。湿度の問題を改善するため、後部をさらにセメントで塞ぎ、全面をガラス張りにして人工的に除湿したが、見物客から排出される二酸化炭素などによる花崗岩の損傷が指摘されることとなった。また、1961年に建てられた木造の前室も換気を妨げる要素とされる。

また、仏像の配置は日本がデタラメに並べたとして、仏教の経典に照らし合わせ、独自の並べ替えを行った。しかしその補修後、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚した。しかし配置は今なお復元されていない。[2]

現在

石窟入口はガラス板で覆われ、内部に入れなくなっている。そのため一般者は前室からガラス越しに見学する。石窟の周囲には、分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材が展示されている。

構造

本尊は、高さ3.4mの如来坐像である。如来坐像の額には、ガラスが埋め込まれている。東から昇る太陽により石窟内に日差しが入ってくると、額のガラスが光る設計になっている。

石窟は、花崗岩を組み合わせて人工的に作られている。内部構造は、入り口から前室・扉道・主室の3つに分かれている。前室は本尊が東の方向を向くように設計されている。(冬至に日が昇る方向と一致)一番奥の主室に本尊である如来坐像(本尊の図像は、降魔成道の釈迦如来を起源とするが、統一新羅では阿弥陀如来として信仰される例が多い)が設置されている。主室はドーム型の形状、前室・扉道は直方体の形状をしている。花崗岩を積み上げた後、土が被せられたと考えられている。花崗岩の壁には、菩薩像や四天王像などの石仏が掘り込まれている。扉道の入り口両側に仁王像が彫られている。前室の八部衆および仁王像は増築の際に追加されたものである。

本尊の仏像は現在釈迦如来と認識されているが、阿弥陀如来釈迦如来かは韓国でも議論がある。なお新羅時代の寺院の本尊は毘盧遮那仏阿弥陀如来である場合が多い。

その他

1万ウォン札の肖像として、石窟庵の石仏が描かれたものが準備されていたが、特定宗教に利するということで中止になった。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 三国遺事』巻五・孝善・大城孝二世父母 神文代
  2. 朝鮮日報2007年9月23日「兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長も「八部神衆の位置が間違っていたことが今回明らかになった。しかし、今即座に石窟庵に手を加えることはできず、そのうち補修時を見計らって手直ししなければならない」