真聖女王

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テンプレート:Infobox 真聖女王(しんせいじょおう、生年不明 - 897年)は新羅下代676年 - 935年)時期の唯一の女王であり、三国時代を含めれば3番目、最後の女王となる(在位:887年 - 897年)。韓国では真聖女主とも呼ぶ。日本では平安時代宇多天皇と同時代の新羅君主である。

名を金曼といい、新羅景文王(在位:861年 - 875年)の娘で、憲康王(在位875年886年)や定康王(在位886年887年)の妹であった。この頃の新羅王室は近親婚が多いため、子孫のない王が続き、王位継承範囲と定められている真骨(王族)には男性がいなくなっていた。そこで、在位1年で病に倒れた定康王の遺言により、妹の曼が即位することになった。

三国史記によれば、真聖女王はもともと角干(官位)の魏弘と通じていたが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒すると、恵成大王の名を贈った。その後は美貌の青少年2~3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。

この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年にして、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位した。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。

真聖女王の後継となった孝恭王(在位:897年 - 912年)は実子ではなく、憲康王の庶子である。その孝恭王も子なくして亡くなり、憲康王の娘(庶子)と結婚した朴景暉が国人の推戴で即位する。これが神徳王(在位:912年 - 917年)である。その後、景明王景哀王敬順王と続き、935年に新羅は滅亡する。

関連項目

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