真田頼昌

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真田 頼昌(さなだ よりまさ、長享元年(1487年) - 大永3年3月15日1523年3月31日))は、室町時代後期(戦国時代初期)の信濃国の豪族。海野氏庶流の出身とされ、今日では真田氏の祖と推定されている。は「頼昌」とされるが、これは元禄9年(1696年)成立の「良泉寺矢沢氏系図」が初出で、戦国期真田氏当主の通字は「綱」であることが指摘されるため、異説もある。

略歴

一度は領地を失いながら、甲斐武田氏の家臣として後の真田家隆盛の礎を築いた真田弾正忠幸綱(幸隆)の父とされ、官途名は右馬介、号は道端とされるが、真田氏の系譜は諸説あり、頼昌に関しても不明な点が多い。

頼昌は「良泉寺矢沢氏系図」「良泉寺過去帳」に所見があり、幸隆の実弟矢沢頼綱の実父である事は資料等から確実とされ、真田姓ではなく「矢沢頼昌」とする説がある。だが真田幸隆や末弟常田伊予守隆永との繋がりを裏付ける資料は無く、「矢沢頼綱の父」から推測して他の兄弟とも親子とされているに過ぎない。更に頼昌には綱吉(綱義)という嫡男がいたとする説が有力視されているが、綱吉は真田幸隆の従兄弟とされる海野左馬允である可能性が高く、後の真田家との関係は未だ謎が多い。

また、妻は海野棟綱の娘とされ、高野山蓮華定院『過去帳月坏信州小県分第一』には拠れば法名は「玉窓貞音大禅尼」で、天文9年(1540年)4月26日に死去したとされる(日付は供養依頼日の可能性も指摘される)。息子とされる真田幸隆にも海野棟綱の娘を妻とした説(両方が事実なら、頼昌と幸隆は義兄弟)があるなど、これもはっきりとはしていない。

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