真田信利

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真田 信利(さなだ のぶとし)は、江戸時代前期の上野沼田藩主。

生涯

松代藩相続争い

信吉は真田信之の庶長子である信吉の次男として生まれる。当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、松代藩の分領(分地)であった。沼田は信吉死後、信利の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638年)に幼くして没した。当時は信利も兵吉を名乗る3歳児だったため、信利の叔父に当たる真田信政が相続した。信利には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与された。

明暦2年(1656年)、祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、叔父信政は本家松代藩を相続し、沼田領は信利が領有することになる。ところが、信政は2年後の明暦4年(1658年)2月に死去し、松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。その時、信利は信之の長子信吉の子であることを理由に「松代藩の後継者は自分である」と幕府に訴え出て撤回を求めた。

信利には正室の実家の土佐藩老中で下馬将軍酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により、沼田領は松代藩から独立して正式に沼田藩として立藩している。

領内騒動、改易

これ以降、信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して5層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。

延宝8(1680年)年、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った[1]。しかし、折からの台風により利根川片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。信利は山形藩奥平家に、長男の信音赤穂藩浅野家に、次男の武藤源三郎信秋(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の栗本外記直堅・四男の辰之助は上田藩仙石家にお預けとなった。翌天和2年正月には、幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められた。その後、信利は奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、同地で没した。享年54。

長男の信音は後に許され、旗本として1000俵(後に采地1000石)を賜ったが、無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぐが、信興の子の政賢の不行跡のため、改易追放となる。この時、父信興の兄弟の信清も連座して改易となった。

年譜

脚注

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  1. 『群馬県史通史編4近世1』p.157