相良長頼

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相良 長頼(さがら ながより、治承元年(1177年) - 建長6年3月10日1254年3月30日)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将鎌倉幕府御家人相良氏の第初代当主[1]相良頼景の長男、または弟、或いは甥とする説もある。通称は相良三郎。

建久9年(1198年)12月、源頼朝の命を受け人吉に下向し、平頼盛の代官である矢瀬主馬助人吉城の明け渡しを迫ったが主馬助が拒否したため、木上城主の平川義高の協力を得て大晦日にこれを胸川に誘い出して滅ぼし人吉城に入城した。

建久10年(1199年)、頼朝の死去に伴って出家する。元久2年(1205年)、畠山重忠の乱において功を挙げ、それにより7月25日に肥後国球磨郡人吉庄の地頭に任じられた。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府方として参陣し、宇治川の戦いでは敵陣一番乗りの功を立て、かつ敵将・渡部弥次郎兵衛を討ち取るという功績を挙げた。しかし寛元元年(1243年)12月23日、甥の相良頼重と争ったことを幕府に咎められ、所領の人吉庄のうち、北部を北条氏の領地として取り上げられてしまった。

その後宝治3年(1249年)3月27日、豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられている。建長6年、人吉庄にて死去し、後を嫡子の相良頼親が継いだ。享年78。法号は蓮仏。

脚注

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テンプレート:肥後相良氏当主
  1. 相良頼景を相良氏の初代とする向きもあるようであるが、相良氏の史料『南藤蔓綿録』等では長頼を初代とし、『人吉市史』もそれを採用しているためそれに準拠する