百道

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テンプレート:Pathnav テンプレート:Infobox Settlement 百道(ももち)は、福岡市早良区の地名。現行行政地名は百道一丁目から百道三丁目。2012年1月31日現在の人口は6,285人[1]郵便番号〒814-0006。

地理

早良区北部の博多湾岸室見川の下流右岸の海岸沿いに位置する。北で百道浜、東で西新、南で藤崎弥生、南西で室見、西で室見川を跨いで西区愛宕豊浜と接しており、愛宕・豊浜とは愛宕大橋で結ばれている。かつては百道松原と称される松の人工林と海水浴場で知られた。戦後急速に宅地化が進み、さらに1980年代に沖合の埋立が行われ福岡におけるウォーターフロント開発の象徴的地域となった。隣接する埋立地シーサイドももち」の公称町名は百道浜であり、百道ではない。

河川

地価

住宅地の地価は2014年平成26年)1月1日に公表された公示地価によれば百道3-16-18の地点で20万7000円/m2となっている。[2]

歴史

1274年文永11年)、元寇の文永の役においては上陸した蒙古軍との激戦が繰り広げられた。「新元史劉復亨伝に「戦於百道原」とある。

江戸時代になり、1619年元和4年)、初代福岡藩主の黒田長政が家臣に百道浜への松の植林を命じ、博多姪浜などの町人から1軒につき1本の松を提供させた。これにより百道(紅葉)松原と称される松の人工林が造られた。1666年寛文6年)には藩主黒田光之により松原の南東部に紅葉八幡宮が造営された。福岡藩は毎年4~7月には百道松原の先の波打ち際を石火矢稽古所とし、砲術訓練を行っていたという。

昭和時代前半までは1913年大正2年)に福岡刑務所が建設された程度で海岸は旧態を保ち、海水浴場として親しまれていた。

戦後、松原を切り開いて宅地が造成されていき、さらに1965年昭和40年)に移転した刑務所跡地を利用して官庁群や分譲団地が建設された。1969年(昭和44年)には、それまでは通称名でしかなかった「百道」が西新町藤崎町・弥生町を分割して新しく町名として設定された。

地名の由来

「百道」の地名の起こりについては、遥か昔この地域が干潟であった頃、そこを往来する人々の足跡が東西縦横に交差する様を「百の道」と表し、転じて「百道」となったと言われている。古くは「百路原」とも呼ばれた。1969年(昭和44年)に、それまでは通称名でしかなかった「百道」を西新町藤崎町・弥生町の各一部を分割して成立した町名として設定した。

交通

鉄道

バス

道路

施設

脚注

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関連項目

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参考文献

テンプレート:福岡市の地域

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  1. 住民基本台帳 男女別人口及び世帯数・公称町別世帯数及び人口/平成24年1月末現在、福岡市役所(XLSファイル)、2012年2月24日閲覧。
  2. 国土交通省地価公示・都道府県地価調査