王延羲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 中国君主 王 延羲(おう えんぎ)は、十国の第5代王(皇帝)。太祖王審知の七男。廟号は景宗

生涯

甥の康宗の在位中には左僕射同平章事に任じられるが、康宗は猜忌心が強かったために身の危険を感じ、発狂者を装い自宅に軟禁されていた。通文4年(939年)、拱宸・控鶴軍使の朱文進連重遇が叛乱を起こし王延羲を推戴し康宗を殺害したことにより、王延羲は威武節度使、閩国王を称し、王曦と改名、永隆と改元した。即位した景宗は後晋に奉表している。

景宗は贅沢奢侈、荒淫無度の生活を送り宗族に対する猜疑心を強めていった。弟の建州刺史王延政はその所業を諌めたが、これを契機に両者の対立が深まり、永隆2年(940年)、景宗は建州攻撃を開始しでの内戦が発生した。内戦は数年間にわたり継続するが決着が付かず、翌年景宗は大閩皇帝、威武節度使を自称するようになった。

景宗の暴虐さは一向に改まるところがなく、永隆6年(944年)、自らの身に危険が及ぶことを恐れた朱文進、連重遇によって殺害された。

テンプレート:ビンの王