毛利就隆

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テンプレート:基礎情報 武士 毛利 就隆(もうり なりたか、慶長7年9月3日1602年10月17日)- 延宝7年8月8日1679年9月12日))は、江戸時代の大名。周防国下松藩徳山藩の初代藩主。就隆系毛利家初代。

毛利輝元の次男。母は児玉元良の娘・清泰院。正室は毛利秀元の娘・松菊子、継室は中川重政の娘・禅海院。子に毛利元次(四男)、毛利元賢(五男)、娘(岡部高成室)、娘(葉室頼孝室)、娘(京極高冬室)、娘(酒井忠国正室)、娘(井上政蔽正室)。幼名は百助、三次郎。のち兄・毛利秀就から偏諱を授与され、祖父・隆元からも1字を取って就隆と名乗る。

経歴

元和3年(1617年)、周防都濃郡に3万石を与えられた。後に4万5000石に加増され、その所領を下松藩として認められて初代藩主となった。輝元の実子でかつ末子のために甘やかされて育ち、自由奔放で贅沢好きな人物であった。最初の正室と離婚したことで、秀元の長府藩と険悪な関係となっていた。

後に負担を領民に押し付けることを恥じて、以後殖産興業や新田開発による税収増加に努めた。特にの生産に力を注いだことから「三白政策」とも呼ばれている。後に下松から野上(「徳山」と改称、現在の周南市)に本拠を移した。一方で手伝普請に悩む、兄の秀就が藩主を務める長州藩からの協力要請を財政難を理由に拒否し、これが後の元次時代の徳山藩改易にまで発展する、萩藩との軋轢の初めとなる。

延宝7年(1679年)に死去し、跡を五男・元賢が継いだ。法号は発性院殿忽生本然大居士。墓所は山口県周南市舞車の聚福山大成寺。周南市徳山城(徳山陣屋)の跡にある祐綏神社に祭神として祀られている。

上野寛永寺には、毛利就隆が寄進した燈篭が現存している。

テンプレート:徳山藩主 テンプレート:安芸毛利氏当主