武乙

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テンプレート:基礎情報 中国君主

武乙(ぶいつ)は殷朝の第27代帝。 都を亳から黄河の北側に戻す。

史記の記述によれば、武乙は、無道であった。例えば、「天神」と名を付けた手作り人形を作り、その人形と博打をして、その人形が負けると罵った。また、その傍ら天に向かって矢を放つということもした。最期は、武乙は黄河と渭水の間の土地で狩猟をしているときにに打たれて、手の施しようも無いまま即死したとされている。

白川静は、武乙の時代は帝辛等の祖先神を祭祀するそれとは違い、自然神の祭祀が主であり、史記の武乙についての記述は不可解であるとした上で、武乙の説話を雷による震死により造作されたものや、当時の信仰への葛藤の現われとする見解を述べている。

竹書紀年によると季歴と同時代の人物であり、参朝した季歴が武乙より土地と馬と玉を賜ったらしい。

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