正木頼忠

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正木 頼忠(まさき よりただ ? - 元和8年8月19日1622年9月24日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主。正木時忠の次男。正木時通の弟。子に正木直連、三浦為春、糟谷軍次郎、正木康長、正木時明、三浦定利、真鍋定時、於万。養子に正木義俊。通称を権五郎。官名を左近大夫。別名に時長、邦時、長時。法名は日正、元英。号を観斉。

妻は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆北条氏尭の誤伝または田中泰行の娘で北条氏尭の養子とも)の娘とあり、『南紀徳川史』では田中泰行娘(岡野融成の姉、氏隆養女)とある。後室に里見義堯の娘。

生涯

父の時忠は安房里見氏の家臣で、正木氏の嫡流である大多喜正木氏の正木時茂の東上総侵攻に従い勝浦城を任され、勝浦正木氏を興していた。時茂の死後、大多喜正木氏の勢力が弱まると、時忠は里見氏からの自立を目論み、1564年に里見氏を裏切って北条氏康に属した。このとき、次男である頼忠は人質として小田原城に送られた。小田原において結婚し、為春と於万を儲けている。後に時忠とその跡を継いだ兄の時通は後北条氏から離れ里見氏に再属した。頼忠は後北条氏の縁戚であるため殺害されなかったが、その日常生活は厳しく監視された。

1575年に兄の時通が急死し、翌年には父も死去したため、頼忠が勝浦正木氏の家督を相続し、勝浦城に戻ったが、妻や子の為春達は小田原に残すことになった。この家督相続の時期に初名の「時長」から「頼忠」に改名している。1580年には頼忠のものとみられる文書が出された記録がある。その後、里見義頼に味方し、その当主擁立に協力し、それに反発した大多喜正木氏の正木憲時が反乱を起こすと、義頼とともにこれを攻め滅ぼした。その後、里見義堯の娘を後室として迎え1587年には後北条氏と交渉し、人質となっていた二人の子を呼び戻した。また前室は蔭山氏広の室となった。

1590年豊臣秀吉小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、秀吉の命令で徳川家康が関東に移封されて里見氏は上総国を失うことになり、勝浦正木氏も所領を捨てて安房国へ去ることになった。頼忠は1592年に出家し、隠居した。娘の於万が家康に見初められ側室として寵愛を受けるようになると、1598年(慶長3年)家康より出仕を求められたが自らは固辞し、子の為春が出仕に応じている。 1603年(慶長8年)には嫡男の直連が松平忠吉の臣となった。 為春が於万の産んだ徳川頼宣に従い紀伊に入部すると、頼忠も紀伊へ移り余生を過ごした。

頼忠の子のうち、幼名菊松は糟谷の養子となり軍次郎と名乗る。父のいる勝浦城へ行くや否や梅王丸を巡る里見氏の家督相続争いに巻き込まれ、後に正木憲時が勝浦城を攻めたとき、頼忠は菊松を脱出させ(お万の布晒しと言われている)河津の母親の元へ逃す。正木織部と名乗り、清水小太郎の女をもらう。秀吉の小田原征伐の際、蔭山氏広が母親と於万を連れて逃れたとき、北条屋敷を引き継ぎ帰農した。もう一子は旗本となった。

参考文献

  • 戦国人名辞典編集委員会 『戦国人名辞典』正木頼忠の項(大石泰史)