松平朝矩

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 朝矩(まつだいら とものり)は、江戸時代中期の大名。はじめ播磨姫路藩主、ついで上野前橋藩主、さらに武蔵川越藩主。直基系越前松平家5代。松平明矩の長男。

生涯

寛延元年(1748年12月27日、11歳のとき父が急死し、姫路藩15万石を継ぐが、姫路は西国を抑える要地であり、藩主が幼少の場合には他国に国替えという不文律があった。かつて曾祖父の直矩も幼少を理由に姫路から越後村上藩に移動させられたが、この時も「幼少の朝矩には姫路藩主は不適当」とされ、翌寛延2年(1749年1月22日に、かねてから姫路転封を狙っていた前橋藩主にして幕閣の重鎮酒井忠恭と交代で前橋15万石への転封を命じられた。

前橋藩は利根川の洪水により度々被害を受ける難所であり[1]前橋城もまた、本来は利根川を利用した天険の要害であったが逆に、その利根川の激流によって年々城地の浸食を受けて城郭の破壊が進み、朝矩の代には本丸にまで浸水して居住するには大変危険な状態となっていた。明和4年(1767年閏9月15日、幕府の許可を受け居城・藩庁を前橋から川越に移した。前橋城周辺の前橋領は川越藩の代官支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却となった。

明和5年(1768年)死去、享年31。家督は次男の直恒が継いだ。

脚注

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官歴


テンプレート:下総結城氏当主 テンプレート:姫路藩主 テンプレート:前橋藩主 テンプレート:川越藩主

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  1. 酒井忠恭もそれを嫌い、同じ15万石でも実高は裕福であると噂されていた姫路への転封を画策したが、転封にかかる費用、姫路にて直矩の先代から続く凶作に加え、転封の噂を察知した百姓による大騒動(寛延の百姓一揆)、加えて転封直後に領内を二度も襲った台風による被害により、酒井家の借財は好転するどころか、さらに増大した。