松平光長

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 光長(まつだいら みつなが)は、越後高田藩の藩主。越前北庄藩主・松平忠直の長男で、結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。

生涯

高田立藩まで

元和元年(1615年)、越前北庄藩主・松平忠直と、第2代将軍・徳川秀忠の娘・勝姫の間に生まれる。元和7年(1621年)、江戸へ赴き、祖父である将軍・秀忠に初見。以後の数年を江戸屋敷にて養育される。父・忠直は秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあったなどとされるが、元和9年(1623年)2月に幕府により豊後国配流とされた。当主不在となった北庄藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れた。

当初、幕府からは島田重次高木正次らが派遣され、光長の相続の許可に対する内示があったが、その後なんらかの方針転換があったのか、7月、幕府から秋元泰朝近藤秀用曽根吉次阿倍正之等が派遣され、越前国の冬の気候の厳しさを理由に、仙千代ら母子は江戸に帰されることになった。翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により、忠直の次弟で当時越後高田藩主であった松平忠昌を忠直の後の北庄藩主とすることが申し渡された。忠昌は兄や仙千代の行く末を思いやって当初これを拒んだが、幕府から仙千代には別に配慮がなされるとの約束を取り付け、引き受けたという話が伝わる[1] [2]。 幕命により、秀康以来の筆頭家老である本多富正(幕府からの附家老)および富正の選抜による百余名の家臣は福井藩の付属とされ、残りの家臣らと仙千代には直昌の移動により空いた越後高田に25万9千石が与えられ、仙千代を藩主とする越後高田藩が立藩した[3]。 福井藩の出来事に関する諸文献を収録した『国事叢記』[4]に拠れば、「忠昌は北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣[5]は光長に随って越後高田藩臣となった。また、老臣のうち、本多飛騨守(本多成重)は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した。」となり、富正に選ばれなかった家臣のうち、多くは光長の高田立藩時にその家臣となったと推測される。

高田藩政

ファイル:Keep Tower of Takada Castle 20121202, 001.jpg
越後高田城三重櫓(新潟県上越市)

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越後騒動

延宝2年(1674年1月30日、嫡子の綱賢(幼名・徳千代)が42歳で没した。綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかったため急ぎ世継を定めねばならなくなった。重臣たちの評議の結果、甥にあたる永見万徳丸(異母弟・永見長頼の子)を世継ぎとすることが決まり、万徳丸を養子として迎えた(松平綱国)。ところが、この縁組の過程を巡って異母弟・永見長良(長頼の同母弟)や義弟にあたる家老小栗美作などの重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後騒動に発展した。長期に渡り藩内に混乱をもたらしたが、一旦は幕府により裁断が下され、落着となった。

裁決の翌年、4代将軍・徳川家綱が死去し、5代将軍・徳川綱吉の代に至り、綱吉は越後騒動に対し異例の再審議を、これもまた異例の将軍直裁にて行った。綱吉の裁断により高田藩は改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流され、藩士らにも大量の処分者を出した。また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬藩主松平近栄(3万石→1万5,000石)・播磨姫路藩主松平直矩(15万石→豊後日田7万石)が連座して処分となった。

晩年

貞享4年(1687年)、老齢および「(騒動は家臣らのせいであり)光長本人に咎はない」として、綱国とともに赦免・召還され、賄料として合力米3万俵を与えられ諸侯に復帰する。後に綱国を病弱を理由に廃嫡する。不仲であったとも伝わる。綱国は宝永5年(1708年)に出家し、享保20年(1735年3月5日に74歳で死去した。綱国の子孫は永見氏と改姓し、のち津山藩城代家老連綿の家系として存続した[6]

小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、徳川光圀の周旋によって、元禄6年(1694年)、一門の松平直矩の子・源之助(矩栄→長矩→宣富、と改名)を養嗣子とする。元禄10年(1697年)に光長は隠居した。元禄11年(1698年)、松平長矩に(光長賄料の合力米3万俵とは別に)新しく美作国内に10万石が与えられ、津山藩が立藩した。光長はその後は静かな余生を送り、宝永4年(1707年)江戸にて、93歳の当時としては極めて長寿な生涯を終えた。

この際、(実質隠居料となってしまった)3万俵は、養嗣子である宣富に相続されず幕府に戻されることとなった。光長に仕えていた家臣の一部は他家へ、あるいは名を変えるなどして津山藩に引き取られ、また光長の名乗りである「越後守」は津山藩歴代に継承された。

略年表:官職位階履歴

  • 元和元年(1615年) 越前国北荘(福井)城で生まれる。
  • 元和7年(1621年) 江戸へ行く。外祖父である将軍徳川秀忠初見。以後江戸城中にて養育される。
  • 元和9年(1623年)2月22日、父・忠直配流により「祖父秀康以来の遺跡越前国一円領知すべき旨」によって、越前へ初入国する。
  • 寛永元年(1624年)4月15日、越後高田藩26万石[7]へ転封。
  • 寛永6年(1629年) 叔父である将軍・徳川家光一字を賜って元服し、光長と名乗る。11月11日、従四位下に叙位。左近衛権少将に任官。越後守を兼任。
  • 寛永7年(1630年) 妹・亀姫、大御所・徳川秀忠の養女として高松宮好仁親王の正室となる。
  • 寛永8年(1631年) 毛利秀就の娘・土佐姫を正室に迎える。
  • 寛永9年(1632年) 妹・鶴姫、将軍・徳川家光の養女として九条道房の正室となる。
  • 慶安3年(1650年) 父・忠直死去。豊後で生まれた忠直の遺児3人(永見長頼、永見長良、勘姫)を高田に引き取る。
  • 慶安4年(1651年)12月15日、従三位右近衛権中将に叙任。
  • 承応2年(1653年) 嫡子・綱賢元服。従四位下侍従・下野守に叙任。
  • 明暦元年(1655年) 娘・国姫、松平光通の正室となる。
  • 万治元年(1658年) 娘・稲姫。伊達宗利の正室となる。
  • 寛文6年(1666年) 綱賢、左近衛権少将に叙任。
  • 寛文12年(1672年) 母・勝姫(高田殿)死去。
  • 延宝2年(1674年) 綱賢死去。甥の綱国が養嗣子となり、従四位上侍従三河守に叙任。
  • 延宝5年(1677年) 正室・土佐姫死去。
  • 天和元年(1681年)6月26日、改易。光長は伊予松山藩に、綱国は備後福山藩に配流。賄料1万俵。
  • 貞享4年(1687年
    • 10月24日、赦免召還[8]
    • 12月25日、従三位に復位し、右近衛権中将に復任し、越後守を兼任。3万俵。江戸・柳原へ住居する。のちこの屋敷は火災で焼失。
  • 元禄6年(1693年) 世子・綱国を廃嫡し、松平直矩の子・矩栄が養嗣子に迎えられる。父直矩と光長のそれぞれ一字を受け長矩と改名する(源之助→矩栄→長矩→宣富)。
  • 元禄10年(1697年)5月6日、隠居。
  • 元禄11年(1698年) 養子・松平長矩が美作津山藩拝領。光長には合力米年3万俵。
  • 宝永4年(1707年) 江戸・高田にて死去。享年92(満91歳没) 。

偏諱を与えた人物

脚注

  1. 貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」(『越系余筆』井上翼章・文化3(1806)年 松平文庫蔵)とあって、寛政12年(1800年)に福井松平氏に対して幕府は『福井松平家系図』の修正を命じ、福井松平氏では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えた。これにより幕府の公式見解は「忠直-忠昌となる。
  2. 『福井県史 通史編3・近世一』では「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」、「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」として、光長が一旦相続したとしているが、いずれも幕府の公式見解とは異なる。
  3. 『福井松平家系図』には「 寛永元年(1624年)甲子四月十五日以特命続秀康、賜封之内五十万石余」(『福井市史 資料編4・近世二』)と記され、松平光長の高田立藩、同じく松平忠昌の福井藩相続は1624年であったとされる。
  4. 弘化3年(一八四六年)福井藩の命を受けた藩士が編纂した、福井藩歴代の諸話を集めた書物。「叢」の文字が示すように、藩内に伝わる”話”を大量雑多に収録してあり、福井藩史研究の一資料である。しかし正式な「藩史」ではなく、例えば「徳川三河守秀康」「光通は村正の刀で自刃」忠直改易の年を間違う、など、いわゆる巷談や不確かな記述も雑多に収録されており、全ての内容を史実と捉えることには注意が必要。
  5. この叢記の記述に関しては、忠昌相続時に他の兄弟(直政、直基、直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それら諸藩に再仕官した家臣らもおり、残りの全てが高田藩に再仕官したのではないという点に留意。
  6. 1870年(明治3年)松平氏へ復姓した。
  7. 越後・信濃の旗頭を命じられ、与力大名として が付属された。
  8. この召喚の際、不手際があったとして翌1688年元禄元年)、旗本の島田守政が閉門処分とされた。

関連項目


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