松平直政

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松平 直政(まつだいら なおまさ)は、江戸時代前期の大名上総姉ヶ崎藩主、越前大野藩主、信濃松本藩主を経て出雲松江藩の初代藩主。直政系越前松平家宗家初代。

生涯

慶長6年(1601年)8月5日、越前北ノ荘藩主・結城秀康の三男[1]として誕生。近江国伊香郡河内で生まれたため、河内丸と名付けられた(のち国丸)。

慶長10年(1605年)、家臣の朝日重政に預けられて養育され、慶長12年(1607年)に父・秀康が病死すると、その跡を継いだ異母兄・忠直の庇護を受ける。慶長16年(1611年)4月17日には、忠直の計らいにより京都二条城で祖父・徳川家康に謁見した。のちに、朝日重政と忠直それぞれの偏諱により直政を名乗るようになった。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣に出陣し、冬の陣では真田信繁(幸村)が守る真田丸にて戦った。大坂夏の陣では忠直に従って活躍し、忠直軍は敵将・真田信繁をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。大坂の陣後、その戦功を祖父・家康から褒め称えられ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えている。元和2年(1616年)5月6日には、江戸幕府から上総姉ヶ崎藩1万石と同年6月には従五位出羽守に叙任され、正式な大名となった。

元和9年(1623年)、兄・忠直が乱行や叔父・徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると、直政は寛永元年(1624年)6月、越前大野藩5万石に加増移封され、同年8月6日に従四位下に昇叙(出羽守如元)した。寛永3年(1626年)8月19日、侍従を兼任する。

寛永10年(1633年)4月22日、信濃松本7万石へ加増移封となった。寛永11年(1634年)、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行うが、これは将軍徳川家光が上洛の帰路に木曾路を経て善光寺参詣の後、松本に立ち寄る予定だったためという[2]。寛永13年(1636年)には松本に新銭座を起こして寛永通宝松本銭を鋳造するなど、家光の従兄弟として小藩では許されない大事業を認可されている[1]。また職人の人足役を免除し、松本町の地子年貢(地役)も免除するなどした[3]

寛永15年(1638年)2月11日、出雲松江18万6千石(及び隠岐1万4千石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となった。直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて大沢基将とともに霊元天皇即位の賀使となり、上洛した。同年5月26日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任した。出羽守如元。しかし、同年11月26日に病となり、寛文6年(1666年)2月3日、江戸藩邸にて病死した。享年66。家督は長男の綱隆が継いだ。墓所は松江市の月照寺

なお、1927年に松江城本丸に米原雲海による銅像「直政公初陣像」が建立されたが、1943年に金属供出で失った。2009年、島根県庁前に倉澤實による銅像「松平直政公像」が再建された。

人物・逸話

  • 口達者な人物で、「油口」と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打飼袋は月照寺にある。
  • 大坂の陣のとき、生母に祖父(家康)の目にかなうよう、卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差される事の無いように」と言われた(『藩翰譜』)[4]。なお、大坂城の真田丸攻めで奮戦したことから、家康に賞賛されたという(『君臣言行録』)[4]
  • 大坂冬の陣の際に、生母の身分が低く部屋住みの身分にあった直政には軍資金が無かったが、家来の神谷兵庫が、西本願寺から2千両もの大金を借りてきてくれたおかげで、出陣できたといわれている。
  • 大坂夏の陣の際に、直政の家臣・武藤太兵衛が直政の性器(陰嚢)を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と述べたといわれている。

脚注

注釈

引用元

  1. 1.0 1.1 田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P36
  2. 田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P35
  3. 田中『シリーズ藩物語、松本藩』、P37
  4. 4.0 4.1 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 1996年2月、P936の3段

参考文献

関連項目


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