来島通総

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来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代伊予国武将大名

生涯

永禄4年(1561年)、村上水軍の一族である来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれる。

永禄10年(1567年)、父の通康が病死したため、7歳の若さで家督を継いだ。通総には兄がいたが、通総の生母が河野通直の娘であったため、家督を相続したものと思われる。

代々河野氏の影響下にあったが、通総の代においては、元亀元年(1570年)に主君の河野通宣室町幕府に納めようとした公用銭を横領するなど、次第に河野氏から独立する姿勢を見せ始めた。また、河野氏と毛利氏は同盟関係にあったことから、毛利氏が大友宗麟を攻めたときには援軍として参加し、大友水軍と戦っている。しかし、この海戦での作戦をめぐって毛利水軍を率いる村上武吉と不仲になったともされる。

天正10年(1582年)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。秀吉は三島村上氏の中でも早くから味方についた通総を「来島、来島」と呼んで重用したため、姓を村上から来島に改めた。天正13年(1585年)の秀吉による四国攻めでは小早川隆景の指揮の下に伊予で先鋒を務め、天正の陣で旧主家の河野氏を攻めた。その戦功により伊予風早郡1万4000石を与えられて大名となった。その後も天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加した。年代は不明だが、豊臣姓を下賜されている(村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」)。

天正20年(1592年)からの文禄の役では当初四国勢を率いる福島正則の五番隊に所属して忠清道に進撃して陸戦に従事したが、朝鮮水軍の活動が活発になると水軍に再編され、朝鮮水軍と戦った。休戦期を挟んで慶長2年(1597年)から再開された慶長の役では水軍として編成された後、南原城攻略戦では600人を率いて陸軍として戦った。その後再度水軍となり全羅道沿岸を掃討するために進撃した。9月16日の鳴梁海戦では先鋒となって海峡に突入したが、潮流などの地の利を生かした朝鮮水軍の板屋船の攻撃を受けて戦死した。享年37。この海戦で通総など先鋒の被害が大きかったが日本水軍の本隊の進出によって海峡の突破と水軍基地の右水営が攻略され、日本水軍は目的通り全羅道西岸へ進出した。全羅道西岸で日本水軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』賊中封疏(賊中から朝鮮王朝への上奏文)の章で日本武将のシステム説明の中で「戦亡した将士はその子弟が職を継ぎ、池田秀雄が珍島で病死した時は子の秀氏が直ちに軍中で代わって職を受け、通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と記している。

来島家の名跡は福島正則に仕えていた長男の通則が死去していたため、次男の長親が継いだ。