暗黒舞踏

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山海塾(グアナフアト国際セルバンテス祭、2006年)

暗黒舞踏(あんこくぶとう)は、日本の舞踊家土方巽を中心に形成された前衛舞踊の様式で、前衛芸術の一つ。日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれ、日本独自の伝統と前衛の混合形態を持つダンスのスタイルとして認知されているが、誤解または独自解釈も多い。 なお、現在は、「暗黒舞踏」ではなく、たんに「舞踏」とだけ呼ぶのが一般的である。「舞踏」には様々な流れがあり、舞踏がすべて「暗黒舞踏」なのではない。

概要

1962年からは、グループ音楽フィルム・アンデパンダンハイレッド・センターなど他の前衛グループとのコラボレーションもさかんに行われ、音楽や美術作品、映画の撮影者を含めた総合芸術的なスタイルを取った。1966年7月に「暗黒舞踏派解散公演」を行い、暗黒舞踏派は解散した。しかし土方一派の舞踊活動自体は1966年以降も途切れることなく続いた。舞踊界への「反逆」ともいえる試みは、話題を呼び、加藤郁乎澁澤龍彦瀧口修造埴谷雄高三島由紀夫などの作家は暗黒舞踏に魅了され、土方とともに舞台にまであがるほどだったが、正統的な舞踊界からは異端視・蔑視され、「剃髪白塗り、裸体、野蛮、60年代日本の突然変異ダンス、テクニックのない素人の情念の踊り」と思われるだけの存在だった。

1970年代より欧州ではカルロッタ池田室伏鴻らが独自に活動をすすめ、のち白桃房大野一雄らの招聘公演の基盤となり、以後、欧州で認知されるようになった。

1980年代に入ると、天児牛大が率いる山海塾のワールドツアーが大きな成功を収めるなど、舞踏は世界的な広がりにおいて注目を浴びた。深夜番組『11PM』や『宝島』などのサブカルチャー雑誌、男性向けの各種週刊誌で山海塾や白虎社などが紹介され、再度一般的な認知度が高くなった。日本での評価は、逆輸入的な一面がある。 1986年に土方巽が没した後も発展を続けている。

前史

暗黒舞踏の成立に大きな影響を与えたものの一つにドイツの新舞踏「ノイエ・タンツ」がある。マリー・ウィグマンの『マリー・ウィグマン舞踊学校』に留学した江口隆哉宮操子夫妻が帰国後に『江口・宮舞踊研究』を設立し、そこに入所したのが大野一雄である。やがて独立した大野に強い影響を受けた土方巽がそれを「暗黒舞踏」として完成させた。また、若き日の土方巽や大野一雄はダダイストの許に出入りしていたといわれテンプレート:要出典、暗黒舞踏の成立にもその影響が見られる。

特徴・定義

暗黒舞踏を定義することは困難である。調和/過剰、美/醜、西欧近代/土着・前近代、形式/情念、外への拡がり(extension)/内的強度(intensity)といった対において、後者のなかにこそ見いだせる倒錯した美を追求する踊り、と言えるかもしれない。伝統芸能としての踊りや民俗舞踊の大部分は、共同性の確認や補強のためのもの(例えば祭りや儀礼のとき)だが、暗黒舞踏は近代芸術の範に漏れず、個人の単独性を提示している。ピルエットや跳躍などのテクニックにより天上界を志向するクラシックバレエなどとは異なり、床や地面へのこだわり、蟹股、低く曲げた腰などによって下界を志向する[1]。一般に剃髪、白塗りのイメージが強い。「ツン」と呼ばれるビキニ状の衣装で局部を隠し、裸体の上から全身白塗りする事が多いが、白塗りは必須ではない。

暗黒舞踏の思想

舞踏の思想は、蟹股、短足といった日本人の身体性へのこだわり、神楽、能、歌舞伎などの伝統芸能や土着性への回帰、中心と周辺の視座による西欧近代の超克など様々な切り口で語られるため、簡便に語るのは困難である。

舞踊界に与えた影響としては、ダンスの定義を拡大しダンスを単なる「動きの芸術」ではなく「肉体の質感の提示」とし、カウントによる振り付けではなく、言葉とイマジネーションによって動きを引き出す(舞踏譜)など、斬新な方法論を開発した点が上げられる。たとえば「自分の胎内でカレイが泳いでいる」「もしあなたの頭が十倍の大きさだったら」「“郷愁”をまっすぐ歩くことだけで表現する」「花火の家族の一家団欒」などといった、禅問答的ともいえる言葉を手がかりに自分なりの方法論で踊りを立ち上げるのが舞踏の作舞法である。当然、バレエや体操競技のような既成の方法論やテクニックは有効ではないから、手探りの状態で動きをつくっていくことになる(ただし土方が作舞した作品に関しては、言葉に対応する動きが蓄積されており、「舞踏譜」と共にレパートリー化されている)。

言葉だけではなく絵画やオブジェなどから着想を得た作品もある。土方は特にフランシス・ベーコンアンリ・ミショーの絵画から着想を得ることを好んだという。

いずれにせよ、土方のメソッドは「イマジネーションと身体を結びつける回路の開発」とでも呼ぶべきものであったテンプレート:要出典。その核心部分の多くは、現在のコンテンポラリーダンスに引き継がれているテンプレート:要出典

  • 「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)
  • 「ただ身体を使おうというわけにはいかないんですよ。身体には身体の命があるでしょ。心だって持っている」(土方巽)

暗黒舞踏の展開

舞踏第一世代
土方巽大野一雄笠井叡白桃房和栗由紀夫大駱駝艦など
叛乱体~衰弱体、大仰なスペクタクル。土方巽直系の様式美。大野一雄笠井叡は土方とは異なる領域を切り開いた。
また五井輝は己の肉体の極限より、孤高の道を模索するのである
舞踏第二世代
山海塾白虎社田中泯岩名雅紀など
第一世代から日本的な要素を払拭。「日本人の体」「エキゾチズム」という縛りから抜け出し、広範な普遍性を獲得テンプレート:要出典
舞踏第三世代
勅使川原三郎有科珠々竹之内淳桂勘山田せつ子など
舞踏を意識している、あるいは舞踏出身であるが、舞踏という枠から逸脱。コンテンポラリーダンスの一部として認められる。国際的な活動が特色。
ポスト舞踏テンプレート:要出典(第四世代)
浅井信好伊藤キム保坂一平白井剛鈴木ユキオ大橋可也SALVANILA枇杷系など
舞踏を消化吸収したコンテンポラリーダンサー。
  • 海外には、SU-ENリチャード・ハートなど、クラシック舞踏の様式美を受け継いだ者や第二世代の影響下にある舞踏家たちが存在する。
  • 当初欧州では、勅使川原三郎は舞踏家の一人という扱いだった(白塗りしていたためと思われる)。

主な暗黒舞踏家

脚注

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参考資料

  • 土方巽・著「犬の静脈に嫉妬することから」1976年、湯川書房
  • 土方巽・著「病める舞姫」1983年、白水社(新版 白水Uブックス 1992年)
  • 土方巽・著「美貌の青空」1987年、筑摩書房
  • 土方巽・著「土方巽全集」1998年、普及版2005年、河出書房新社 
  • 土方巽/吉増剛造・著「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」1992、書肆山田
  • CD-ROM付書籍「土方巽の舞踏―肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー」(川崎市岡本太郎美術館/慶應義塾大学アートセンター・編集)2003、慶應義塾大学出版会
  • DVD「土方巽 夏の嵐:燔犠大踏鑑」(荒井美三雄・監督)2004、Image Forum & aguerreo Press,Inc
  • CD-ROM「舞踏花伝」1998、ジャストシステム
  • DVD「舞踏花伝」2006、ヌーサイト
  • 吉岡実・著「土方巽頌」1987年 筑摩書房
  • 元藤燁子・著「土方巽とともに」1990年 筑摩書房
  • 大野一雄・著「稽古の言葉」1997、フィルムアート社
  • 大野一雄・著「御殿空を飛ぶ」1998、思潮社
  • 大野一雄・著「魂の糧」 1999、フィルムアート社
  • 大野一雄・著「百年の舞踏」2007、フィルムアート社
  • 大野慶人・監修「秘する肉体 大野一雄の世界」2006、クレオ
  • 三上賀代・著「器としての身體-土方巽暗黒舞踏技法へのアプローチ」1993、ANZ堂 
  • 小林嵯峨・著「うめの砂草 舞踏の言葉」2005、アトリエサード
  • 原田広美・著「舞踏(BUTOH)大全:暗黒と光の王国」 2004、現代書館   
  • 桜井 圭介、押切 伸一、いとうせいこう・著「西麻布ダンス教室」1994(増補版1998)、白水社
  • 有科珠々・著「パリ発・踊れる身体ー有科メソードによるダンスの実践と指導」2010、新水社
  • DVD 山海塾「卵熱 卵を立てることから」2007、i-o factory
  • 乗越たかお ・著『ダンスバイブル コンテンポラリー・ダンス誕生の秘密を探る』 河出書房新社 2010
  • 乗越たかお ・著『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激闘コンテンポラリー・ダンス』 エヌティティ出版 2009
  • 乗越たかお ・著『コンテンポラリー・ダンス 徹底ガイド』 作品社 2003
  • 乗越たかお ・著『コンテンポラリー・ダンス 徹底ガイドHYPER』 作品社 2006

関連項目

外部リンク

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日本語

外国語


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  1. 市川雅「舞踏」『別冊太陽 現代演劇60'S~90'S』平凡社