昭帝 (漢)

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昭帝(しょうてい)は前漢の第8代皇帝。  

生涯

武帝の末子として生まれる。征和2年(前91年)の巫蠱の乱で長兄の戻太子劉拠及びその一族が誅滅されると、武帝は新たな後継者を指名する必要に迫られた。しかし各地に冊封された武帝の皇子達(昭帝の異母兄)は早世または言動に問題があるなど適任者がなく、幼少の末子である劉弗陵が皇太子に立てられた。その際、母の趙妤は呂雉のような外戚の専横を未然に防ぐ目的で、武帝の命で殺害されている。

後元2年(前87年)、武帝の崩御により僅か8歳で即位した。政務は武帝が生前に昭帝の後見を依頼していた大司馬大将軍霍光、左将軍の上官桀車騎将軍金日により政務が輔弼され、間もなく金日が死去すると霍光と上官桀の両者による後見が行われた。当初は良好な関係にあった両者であるが、徐々に霍光に権力が集中し、一方で上官桀の孫娘が昭帝の皇后として入内すると、関係は悪化し、霍光に不満を持つ武帝以来の旧臣で御史大夫桑弘羊と昭帝の即位に不満を抱く劉旦(昭帝の異母兄)が上官桀派になったことで朝廷は不安定なものとなった。

上官桀派は、昭帝を廃立し燕王を皇帝に擁立しようとするも失敗、元鳳元年(前80年)までに処刑、若しくは自殺に追い込まれ、以降は霍光が輔政の任にあたり、その子弟がこれを補佐するという体制が宣帝の代の初期まで続くこととなる。

昭帝の代の政治の特色としては、武帝以来の専売制を弱め、国力の回復に専念したことにある。霍光の意向を受け専売制の廃止を訴える儒者と専売制の続行を進めようとする桑弘羊との論争をまとめたものとして、『塩鉄論』があるが、これは昭帝の代に行なわれた両者の論争を元にまとめられたものである。

元平元年(前74年)に数え21歳で急病に倒れ、1ヶ月ほど病床についた後崩御した。

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