徳川家基

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徳川 家基(とくがわ いえもと)は、江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが夭折した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の一文字を賜りながら将軍位に就けなかったため、「幻の第11代将軍」とも言われる。

生涯

家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方との間に生まれる。生後まもなく大奥女中の広橋の願いもあり、男子のいなかった家治の正室・倫子養子となって成長した。幼年期より聡明で文武両道の才能を見せる。成長するにつれ政治にも関心を持ち参画する姿勢を表し、老中田沼意次の政治を批判している。

突然の死

しかし安永8年(1779年)、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川東海寺で突然体の不調を訴え、三日後に死去。享年18(満16歳没)。父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。

その突然の死は、家基の将軍就任によって失脚する事を恐れた意次による毒殺説、嫡子・豊千代(後の徳川家斉)に将軍家を継がせたい一橋家徳川治済による毒殺説など多くの暗殺説を生んだ。彼に代わって第11代将軍となった家斉は、晩年になっても家基の命日には自ら墓所に参詣するか、若年寄を代参させていた。直接の血縁関係にあるわけでもない先代将軍の子供にここまで敬意を払うのは異例であり、謎の多い死亡状況もあって、北島正元井沢元彦は「家斉が、家基は自分を将軍の座に就けようとしていた父・治済に暗殺されたと疑っていた可能性が高い」としている。なお、家基の生母である蓮光院は家斉の将軍在任中の文政11年(1828年)に、没後三十年以上たって従三位を追贈されているが、将軍正室・将軍生母以外の大奥の女性が叙位された例は珍しい。家基の死により、父・家治の子は全員死去し、その後、家治は死去するまで子を儲けることはなかったため、家治の血筋は断絶することとなった。

一方で最近ではフォン・シーボルト著「日本交通貿易史」の記述を元に、オランダから輸入されたペルシャ馬に乗馬中落馬して死亡したとする事故死説も主張されている[1]

官歴

※日付は旧暦

徳川家基 贈太政大臣正一位宣命(「高麗環雑記」)

天皇我詔良万止、贈内大臣正二位源家基朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、将家乃継嗣示志氐朝廷乃爪牙止毛成倍岐尓、不慮毛早久逝志乎、哀美給比惜美給比氐、安永乃御宇尓追贈志、今又官位乎上給比氐、太政大臣正一位乎贈給比治賜布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、

(訓読文)天皇我詔良万止(孝明天皇 すめらがおほみことらまと)、贈内大臣(うちのおほまへつぎみ)正二位(おほいふたつのくらゐ)源家基朝臣に詔倍止(のらへと)勅命乎(おほみことを)聞食止宣(きこしめせとのる)、将家(将軍家)の継嗣(よつぎ)として朝廷(みかど)の爪牙(さうが)とも成るべきに、不慮(こころならず)も早く逝(ゆ)きしを、哀(かなし)み給ひ惜しみ給ひて、安永の御宇(ぎょう)に追贈し、今又官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣(おほまつりごとのおほまへつぎみ)正一位(おほいひとつのくらゐ)を贈り給ひ治め賜ふ、天皇(すめら)が勅命(おほみこと)を遠く聞こし食(め)せと宣(の)る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、

脚注

  1. 後藤晃一 『緊急提言 徳川家治の政治に学べ―超近代的手法を駆使し成功させた景気浮揚・地方分権・財政健全化・税制改革』テーミス 2011年 ISBN 978-4901331210