広島県立世羅高等学校

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テンプレート:保護依頼 テンプレート:日本の高等学校 広島県立世羅高等学校(ひろしまけんりつ せらこうとうがっこう)は、広島県世羅郡世羅町にある高等学校である。


概要

駅伝の強豪校として知られ、毎年12月に京都で開催される全国高校駅伝大会で、西脇工業8度に次ぎ、全国二位の優勝7度(詳細は#部活動)。近年は国公立大学への進学実績を伸ばしており、過去1974年度の34人が最高であったが、2005年度は30人、2006年度は39人の合格者を出している。2006年度から広島県教育委員会より進学指導重点校に指定された県内15校のうちの1つである。

沿革

広島県立世羅中学校

  • 1896年 - 前身となる千葉三郎氏私塾甲西会(攻世館の前身)を創設。
  • 1923年 - 世羅郡13カ町村組合世羅中学校と改称。
  • 1925年 - 県移管、広島県立世羅中学校と改称。
  • 1948年 - 学制改革により、広島県世羅高等学校となる。

広島県世羅高等学校神田分校設置。(定時制課程)

広島県立甲山高等女学校

  • 1897年 - 世羅郡甲山町多田道子私立裁縫所創設。
  • 1904年 - 世羅郡女子実業学校と改称。
  • 1911年 - 世羅郡立世羅女学校と改称。
  • 1921年 - 県移管、広島県甲山高等女学校と改称。
  • 1948年 - 学制改革により、広島県立甲山高等学校となる。

広島県甲山高等学校に小国、吉川分校設置。(定時制課程)

  • 1949年 - 小国、吉川分校を合併し、吉川分校となる。

広島県立世羅高等学校

  • 1949年 - 県高校再編成により、広島県世羅高等学校となる。普通科、生活科を置く。
  • 1949年 - 広島県世羅高等学校神田分校(定時制課程)設置。
  • 1950年 - 農業科設置。
  • 1952年 - 定時制(夜間)課程普通科設置。
  • 1962年 - 広島県世羅高等学校吉川分校に広島県塩町高等学校三和分校(いずれも定時制課程)を吸収統合して、広島県世羅高等学校三和分校とし、旧吉川分校の校地校舎を継承して、全日制課程普通科・家政科・農業科を置く。(定時制課程は募集停止)
  • 1963年 - 広島県本郷高等学校豊田分校、広島県世羅高等学校豊田分校に所属変更。
  • 1963年 - 広島県世羅高等学校豊田分校を広島県世羅高等学校神田分校と併せて広島県世羅高等学校大和分校とし、両者それぞれ従前の位置のまま、同分校の豊田分教場、神田分教場とする。(いずれも定時制課程)
  • 1963年 - 農業機械科設置。
  • 1965年 - 大和分校定時制課程の募集を停止し、全日制課程を設置。
  • 1968年 - 本校定時制課程の生徒募集停止。
  • 1968年 - 広島県立世羅高等学校と改称。
  • 1972年 - 三和分校農業科の生徒募集停止。
  • 1973年 - 本校農業科の生徒募集を停止し、農業開発科を新設。
  • 1973年 - 三和分校独立して広島県立三和高等学校となる。
  • 1974年 - 大和分校家政科の生徒募集停止。
  • 1981年 - 大和分校独立して広島県立大和高等学校となる。
  • 1993年 - 本校家政科・農業開発科・農業機械科の生徒募集を停止し、生活科学科・環境科学科・生産情報科を開設。
  • 1996年 - 創立100周年記念式典。
  • 1999年 - 国旗・国歌に関する事件が発生。
  • 2001年 - 45分・7時間授業の導入。
  • 2002年 - 総合選択制の導入。
  • 2006年 - 11月10日に創立110周年を祝って、台湾人卒業生で作る台湾同好会会長陳恒盛が、台湾桜の苗木6本を植樹した。
  • 2007年 - 広島県立三和高等学校を統合。
  • 2012年 - 広島県立大和高等学校を統合。

校訓

我等は真理と正義を愛し、豊かな品性を培い、明朗でたくましい実践力を体得しよう。

校風

ケニア台湾の高校と姉妹校提携。旧制世羅中時代から多くの台湾人を受け入れている。2002年から、ケニアからの留学生を獲得し、国際交流という建前で駅伝部の強化を行っている。ケニア人留学生は、全国高校駅伝で活躍した。公立高校の運動部に、継続して特定の国出身の留学生が所属するのは極めて異例であり批判がある[1]

部活動

本部
  • 放送部
  • 応援団
  • 吹奏楽部
運動部
  • 陸上競技部
男子陸上競技部は、全国高校駅伝大会の第1回(1950年)、2回(1951年)大会を連覇するなど[2]、「高校駅伝の草分け」として知られ[3]、かつては小林中京とともに「高校駅伝御三家」と呼ばれた[4][5]1980年代1990年代は低迷したが、2000年代以降は海外からの留学生の活躍もあって息を吹き返し、出場42回(全国3位)、全国優勝7回(全国2位タイ)、入賞31回(全国1位)の実績をもつ(2012年現在)。陸上競技マガジンによる「過去の入賞を集計した得点ランキング[6]」では全国トップ[7][8]
  • 硬式野球部
  • 空手道部
  • バレーボール部
  • 卓球部
  • ソフトテニス部
  • サッカー部
  • バスケットボール部
  • 剣道部
  • ソフトボール部
文化部
  • 文芸部
  • 演劇部
  • 書道部
  • 美術部
  • 科学部
  • ESS
  • 写真部

著名な卒業生

国旗・国歌に関する事件

1999年平成11年)2月28日君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する日本教職員組合傘下の広島県高等学校教職員組合(広島高教組)の組合員教職員や部落解放同盟広島県連合会との連日の交渉に追われ、一方でそれを義務付ける通達を出した文部科学省との間で板挟みとなった当時の校長が卒業式前日に「何が正しいのか分からない。自分の選ぶ道がどこにもない」とする遺書を残し自宅で自殺する事件が起こり、『国旗及び国歌に関する法律』成立のきっかけとなった。地方公務員災害補償基金広島県支部は、校長の自殺を教職員の執拗な抵抗に追い込められたことが要因であるとし、2006年に公務災害に認定した[9]テンプレート:See also

韓国への修学旅行報道

1999年(平成11年)3月5日、韓国日報が「“キミガヨ”で悩みの校長の教え子たち」「5年前からタップコル公園で“謝罪の参拝”」という見出しをうち、世羅高校の生徒達が「タップコル公園の3.1(独立)運動記念塔前でひざを折り、頭を垂れている」という写真を添えて、「日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した」と1998年10月16日の様子を社会面トップで報じた。

記事の中では、事実とは異なる内容であるが、世羅高校の国旗問題も取り上げており「これまで五年間、“謝罪修学旅行”を許可してきた校長先生が、日帝軍国主義の象徴である日章旗掲揚や君が代斉唱に反対する教師たちと教育委員会の間で悩んだ末に自殺を選んだのだろう」という世羅高校の「謝罪旅行」を案内してきたという韓国人の声も報じた。(しかし、自殺した校長の就任は報じられた韓国旅行の1年前である。)

この韓国日報の内容を1999年(平成11年)3月6日、産経新聞が報じ、「一方的に謝罪する行為は、かえって信頼や友好を妨げる。本当の友好とは、言うべきことを言い合って築かれるものだ。日本の一部の教師が持つ思い込みや非常識さが、この修学旅行のような広島県の異常な教育の背景にある」と高橋史朗明星大教授の批判の声を載せた。

後日、産経新聞による教師への取材によると「韓国でどう報道されているかは分からないが、宣言文を読み上げる前に生徒たちが座った形で集会を開催。座ったままで黙とうした。眠たさの為、頭を下げていた生徒もいたと思う」と話していたという。

また、読み上げた宣言文の内容[10]については、生徒たちが考えたものだという。同日の読売新聞の取材に答えた教諭の話によれば「平和学習の一環であり、謝罪旅行ではない。三・一独立運動記念碑前では、座っただけで、ひざまずいてはいない。韓国の新聞で謝罪文としているのは宣言文で、生徒が考えた。垂れ幕には『平和をつくろう、私たちの手で』と書いてあり、謝罪の言葉はない」と主張している。鎌田慧は、著書「家族が自殺に追い込まれるとき」において産経新聞の記事と、同様の内容を掲載した週刊文春3月18日号を、「死者に鞭うつ記事」であると主張したが、「謝罪旅行」として報道のもととなった韓国日報への言及はなかった。


脚注

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関連項目

外部リンク


テンプレート:全国高等学校駅伝競走大会優勝校
  1. 中国新聞2014年7月6日7面広場の投書より
  2. 特集 スポーツ県・広島 アマチュアスポーツ黄金時代男子第1回大会記事 | 全国高等学校駅伝競走大会男子第2回大会記事 | 全国高等学校駅伝競走大会
  3. 長岡民男ほか『高校駅伝50年史 - 半世紀、タスキつないで』、出版芸術社、2000年、158頁
  4. 『高校駅伝50年史 - 半世紀、タスキつないで』、8頁
  5. 陸上競技マガジンベースボール・マガジン社、2013年2月号、169頁
  6. 2010年まで男子61年のトータルで過去の8位以内(入賞)の得点を集計。1992年までは10位以内までが入賞で、1993年からは8位以内が入賞となったが、全て8位以内を対象とし、1位8点~8位1点として得点を集計。世羅は165点で全国トップ。2位小林142点、3位大牟田130点(陸上競技マガジン、2011年2月号、114-115頁)。
  7. 陸上競技マガジン、2011年2月号、114-115頁
  8. 全国高等学校駅伝競走大会公式サイト 大会全記録
  9. 2006年8月19日中国新聞社説
  10. 1999年3月10日産経新聞は「宣言文」の全文を手に入れたとし、それによると、まず玄界灘について「古代から日本に文化を伝え続けた海峡であり、韓国と日本の歴史的に不幸な事実や在日韓国人が受けている不当な差別的現実を生んだ海峡でもある。私たちは昨日その海峡を渡った。」とし、韓国の独立記念館での印象に触れて「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付き情けなくなった」とした後、「自らの偏狭な価値観で異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人となる第一歩としたい。この地で学ぶ日本とこの国の過去の不幸な歴史的事実を教訓とし21世紀を創る世代の人間のひとりとしてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたいと思う。」と締めくくる内容であったことが明らかにされた。