岡部正綱

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岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将今川氏武田氏徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岡部元信の兄(親子説あり)。岡部長盛の父。次郎右衛門尉。

武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されている。

最初は今川家に仕えており、16歳の初陣で兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河国を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、礼を尽くして信玄に招かれ、「万の兵士を得るのは容易だが、ひとりの将を得るのは難しい」と言われて武田氏の家臣として仕えた。

その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城徳川家の侵攻で陥落し、弟の岡部元信が討ち死にした後は徳川家康の家臣となる。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐国に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。

しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したともいわれ、没年・死因ともに異説がある。

正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉国岸和田に6万石を与えられた。


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