山崎浩子

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テンプレート:Ambox-mini 山崎 浩子(やまさき ひろこ、1960年1月3日 - )は鹿児島県揖宿郡山川町(現・指宿市)出身の元新体操の選手・タレントスポーツライター。身長154cm。血液型はB型。

来歴

少女期

三人姉妹の末っ子として育ち、3才の時に小学校教師の父親が教頭として種子島に赴任するのに伴い引っ越す。姉二人は厳格で亭主関白だった父親を敬遠していたが、山崎は甘え父親も猫可愛がりしていた[1]。教師の子ゆえに贔屓されているといじめられていたが、母親からは「いじめるよりいじめられるほうがいい。どんな生き方をしてもいいが、人に迷惑だけはかけるな」と言われていた[2]

新体操選手時代

スポーツ万能な姉に対し山崎は運動音痴だったが、入学した鹿児島純心女子高校で新体操の演技を見て入部を決める。厳しい指導で知られる女性監督の下、一日の休みもない合宿生活が一年中続き、練習でミスをすれば体罰を受け掃除に心がこもっていないと叱られる日々だったが、監督から優しい言葉をかけられた大会で団体優勝。あえて厳しく鍛えた真意に気付き絶対的な信頼を置いた[1]東京女子体育短期大学に入学し、その後大学に編入。全日本選手権で個人総合5連覇を果たし、新体操ブームの火付け役となった[3]1979年の世界選手権大会(ロンドン)個人総合で20位、1981年の世界選手権大会(ミュンヘン)個人総合で12位、1983年の世界選手権大会(ストラスブール)個人総合で34位。1983年7月、ロサンゼルスオリンピック出場を願っていた最愛の父が死去。海外遠征のため葬儀にも間に合わなかった[1]1984年、ロサンゼルスオリンピック個人総合で8位入賞し、この出場を最後に引退。

タレント活動とスクール開校

タレントとしてTBSテレビの人気番組『クイズダービー』では、斉藤慶子の後を引き継いで、約2年10か月(1985年4月~1988年2月)の間、8代目2枠レギュラー解答者として出演。正答率は2割7分6厘(平均2勝6敗ペース)だった。タレント活動がアマチュア規定に触れたため新体操の世界には戻れないと言われていたが、子供たちを指導するうちに新体操スクールを作りたいと思うようになり、大学時代からの女友達Tと二人で有限会社を設立。1988年4月、体育館を所有する企業との共同経営で子供を対象としたスクールを開校した[4]。同年のソウルオリンピックではリポーターを務めた[2]

統一教会

手相や字画を見るという男性から印鑑を買った友人Tの話を聞いて興味を持ちこの男性と会う。1989年1月、再度会った席で言われた「今が転換期」との言葉に共感し3本120万円の印鑑を買った。その頃は成長願望が強かったこともあり男性に紹介された自己啓発センターのビデオ学習を受け始め、ある日見たビデオの「人類はサタン(悪魔)の子」との言葉にショックを受けたが、今はメシア(再臨主)が来る時代とのメッセージを聞いて救われた気持ちになった[1]

講義では、メシアとは統一教会(統一協会)創始者の文鮮明であると告げられる。山崎が大学4年生だった頃に教会の勧誘が盛んになり始め、高価な壺を買った新体操部員がいて問題になっていた。また教会の合同結婚式の写真を見て新興宗教に立腹していたこともあり、その教会の講義を受けていることに怒りを覚えたが、友人Tに諭されて受講を続けるうちに教会の教義である統一原理にのめり込む。付き合っている相手がいたが、人類の罪を清算するためには神が選ぶ相手と結婚する必要があるという統一原理を学ぶうちに罪の意識に苛まれるようになり、交際を解消した[1]

山崎は文鮮明について何も知らず見た目も気に入らなかったが、迫害を甘んじて受け入れたという文と高校で新体操部のために尽くした監督を重ね合わせるうちに文を信じる気持ちになった。真冬の水行をこなし、多くの先祖たちが救われるならと考え多額の献金も行う。教会に反対する浅見定雄森山諭らが鎖や薬を使って信仰を失わせることには怒りを覚えた[1]

1990年冬、文鮮明の子・興進の墓参りなどのため韓国を訪問。1991年夏、この年に合同結婚式(祝福)が行われることを知る。祝福は神の審判とも呼ばれ、かつては仕事を辞め自己を投げうつ献身者と呼ばれる信者しか受けることができなかったという。そのような苦しい経験がないまま祝福を受けることに恐怖を感じ、1週間の断食に挑戦し成功。その後知り合った男性から好意を伝えられたが、祝福を受ける以外に救われる道はないとの思いから関係を絶つ。合同結婚式は延期になった[2]

1992年3月、母親の死去をきっかけに、ためらっていた祝福を受ける決心をする。夏に行われる合同結婚式に参加することが6月25日発売の週刊文春に掲載され、同日の記者会見では入信の動機などについて答えるとともに、文鮮明が選ぶ相手ならどんな人物でもいいと述べた。この会見は全国の教会員から絶賛されたが、親戚からは結婚を猛反対された[2]。6月30日、相手となる28才の日本人男性と対面しその場で結婚を了承。断ることは当初から考えていなかった[5]

8月24日、合同結婚式に参加する女優の桜田淳子、バドミントン選手の徳田敦子とともに文鮮明・韓鶴子夫妻に面会し、翌25日にソウルオリンピックスタジアムで行われた結婚式に3万組の新郎新婦とともに参加。教会に批判的な報道が続いた影響で講演などの仕事が減り、経済的に苦しくなる。教会からは入籍を促されていたが、姉の頼みもあり母親の一周忌を過ぎてからと決めた[5]

1993年3月6日、姉の家で夫の両親と姉夫婦が初めて顔を合わせるが、教会への批判や指摘に終始したまま夫家族が帰る。その後、墓のことで話があるとやって来た叔父夫婦が結婚について別の場所で話し合いたいと持ちかけた時には、これが教会で聞かされてきた拉致・監禁だと気付き涙が止まらなかったが、逃げてはいけないと考え従う。連れて来られたのはマンションの一室だった[5]

教会不信と脱会

翌日から姉が説得し山崎が反論する日が1週間続き母親の命日を迎えた翌日、子供を家に残して説得を続ける姉の真剣さに打たれ紹介された牧師に会う。元信者でもある牧師から話を聞くうちに、教会の統一原理がキリスト教とは相容れないことや文鮮明の経歴や教会のルーツの嘘、自身がマインドコントロールされていたことに気付き脱会を決意。また教会が喧伝する強制改宗グループというものは存在せず、それは一円の得にもならない説得を続ける牧師達だと知る[4]

4月21日、記者会見ですべてが間違いだったと認めて脱会を表明し、多くの人の人生を狂わせたと謝罪した。その後、友人Tも牧師に会って話を聞き脱会を決意。山崎は新体操スクールのスタッフや生徒の親からコーチ復帰を歓迎されたが職を辞した。夫には牧師に会ってほしいと手紙を出していたが願いは伝わらず、8月に別れを告げてから接点は何もないという[6]

騒動が一段落した後は、アテネオリンピック強化委員会新体操強化副本部長を務め、競技の解説もした。その後、財団法人日本体操協会理事、2004年春には北京オリンピック委員会新体操強化本部長に就任してフェアリージャパンを率い、新体操の再生を図っている。スポーツライターとしてあらゆるスポーツをカバーするほか、各地での新体操指導、イベント出演等、ダンスドラマなど幅広い活動をしている。

脚注

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著書

  • 山崎浩子著『センス - スポーツを楽しむには"優れた感性"が必要だ』ISBN 978-4777902316(2004年12月)エイ出版社
  • 山崎浩子共著『コーディネーション・エクササイズ - スポーツ種目別』ISBN 978-4915873140(2004年9月)全国書籍出版
  • 山崎浩子著『山崎浩子の新ボディ改革 - 新体操エクササイズで体脂肪ダウン! 』ISBN 978-4072341810(2002年10月)主婦の友社
  • 山崎浩子著『引退 - 終わらない夢』ISBN 978-4870993617(2000年7月)エイ出版社
  • 山崎浩子著『愛が偽りに終わるとき』ISBN 978-4163489001 (1994年3月) 文藝春秋
  • 山崎浩子著『失敗という名のレッスン』ISBN 978-4062067577(1994年2月)講談社
  • 山崎浩子著『山崎浩子の楽しい新体操』ISBN 978-4338085090 (1990年10月) 小峰書店

参考文献

  • 加茂佳子・後藤忠弘・山田真一(写真)『スポーツのみかた 1 新体操』保育社カラーブックス(1984年8月)
  • 浅井慎平撮影『'84ブラザーカップ新体操写真集~Passion flowers』ISBN 978-4931033443(1984年7月)日本文化出版
  • 立木義浩撮影、日本体操協会監修『美・コレクション・ブラザーカップ'83新体操写真集』日本文化出版(ゴルフクラシック別冊)(1983年8月)

主なテレビ出演

関連項目

先代:
1978年
麓久美子
1979年-1983年
全日本新体操選手権大会
女子個人総合優勝
山崎浩子
次代:
1984年1989年
秋山エリカ

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』1章 文藝春秋 1994年
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』2章 文藝春秋 1994年
  • 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』プロフィール 文藝春秋 1994年
  • 4.0 4.1 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』4章 文藝春秋 1994年
  • 5.0 5.1 5.2 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』3章 文藝春秋 1994年
  • 山﨑浩子 『愛が偽りに終わるとき』5章 文藝春秋 1994年