寿福寺

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仏殿とビャクシン

寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派寺院である。鎌倉五山第3位の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音第24番。鎌倉二十四地蔵第18番。境内は「寿福寺境内」として1966年昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。

歴史

源頼朝が没した翌年の1200年正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。

もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。

創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。 1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。

寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心円爾(弁円)、蘭渓道隆大休正念など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。

鎌倉初期に高い寺格をもって繁栄したが、「海道記」や「東関紀行」の作者は、寿福寺についてふれるところがない。

境内

総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。

境内裏手の墓地には、陸奥宗光高浜虚子大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。

文化財

重要文化財

  • 木造地蔵菩薩立像-鎌倉時代の作。鎌倉国宝館に寄託。
  • 銅造薬師如来坐像-鎌倉時代の作。神仏分離の際、鶴岡八幡宮から移されたもの。
  • 喫茶養生記

県指定文化財

  • 木造栄西禅師坐像

その他

  • 釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。脱活乾漆は、粘土などで作った原型の上に麻布を漆で貼り固めた張り子状の像で、日本では奈良時代に多数制作されたが、中世以降にこの技法を用いた仏像はきわめてまれである。なお、両脇侍像は木造である。

墓所

交通

関連項目

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外部リンク

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