奇皇后

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奇皇后(きこうごう、1315年頃 - 1369年or1370年以降)は、14世紀朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生んだ。モンゴル帝国の高麗征服以後、元室と高麗王室は兄弟の契りを結び、モンゴル公主が歴代の高麗王に降嫁していた。高麗王は元の征東行省の長官かつ、元帝の女婿という独自の国際的地位を確保していた[1]。このような麗蒙関係の中で出現した高麗人元室皇后である。

生涯

高麗貢女

もともと高麗人・奇子敖の娘で、高麗貢女として元廷に献上された女性である。宮女として順帝トゴン・テムル(在位1333年~1368年)の食膳の給仕などをしていたが、次第に順帝の寵愛を得たものである。順帝には最初キプチャク族出身のタナシリ皇后がいて、奇氏は嫉妬にかられたタナシリからたびたび嫌がらせを受けたが、うまい具合に1335年タナシリの兄が謀反罪で捕らえられ、タナシリも謀反に加担したとして殺された。その後1337年順帝にはモンゴルホンギラート部出身のバヤンフト皇后が冊立され、奇氏は次皇后となった。

次皇后

バヤンフト皇后は皇子を1人生んだが、2歳で夭折している。バヤンフト皇后はよくできた人物で、次皇后・奇氏が順帝の寵愛を得ても嫉妬ひとつせず、慎ましく暮らしていたという。奇氏も暇をみては女孝経や史書を紐解く賢女で、飢饉で多数の死者が出たときには私財を投じて餓死者の埋葬や供養に当たったとされる。奇氏はやがて待望の皇子アユルシリダラを生み、皇子は1353年皇太子冊立された。これ以後、奇氏は元朝皇太子生母として権勢を恣にする。このアユルシリダラも高麗の福安府院君・権謙如の娘を娶ることになる。

高麗の動き

一方、高麗では奇氏はもともと貧寒の家柄であったが、その娘が高麗王よりも高位の元朝皇帝の次皇后、皇太子生母になったと大騒ぎになり、奇氏一門が権勢を振るうようになった。1351年反元の志を抱いて高麗王に即位した恭愍王はこれを快く思わず、1356年に奇氏一門を誅殺した。これを恨んだ奇后は恭愍王の廃位を順帝に働きかけ、皇太子にも「祖父の仇を取れ」と吹き込んでいた。1363年、順帝はついに恭愍王を廃位し、当時元の都、大都に滞在していた高麗王族を高麗王とする勅書を発し、兵1万を付けて高麗に向かわせた。「元史」によるとこの時、倭人(日本人)も招かれて軍に参加したという。当時中国沿岸をうろついていた倭寇が元の傭兵となったものだろう。しかし、鴨緑江を超えた元軍は高麗の伏兵にさんざんに打ち破られて逃げ帰り、奇后の面目は丸潰れとなった。

正皇后

奇后は以前から、政治に身を入れず酒色に耽る順帝に愛想を尽かし、皇位を息子の皇太子アユルシリダラに譲位させたがっていた。1365年には偽勅を発してグルカ・テムルの軍を動員し、順帝に迫ろうとしたが、グルカ・テムルに気付かれてうまく行かなかった。それでも廃位されなかったのだから、皇太子生母の立場は強いものであった。

まもなく正皇后バヤンフトが死去したことにより、次皇后の地位にあった奇氏は正皇后に昇格した。奇氏がバヤンフト皇后の死後、その宮室に行ってみると、慎ましく暮らしていた前皇后の衣服は破れを繕ったようなものばかりで、奇氏は「正皇后がこんな服ばかり着ていたのか」と大笑いしたという。次皇后とはいえ、皇太子生母として相当な権勢を振るっていたとみなければならない。

北元

だが、1368年朱元璋軍が大都郊外の通州に迫ると、順帝は奇皇后や皇太子を引き連れて大都を去り、元朝の中国支配はあっけなく終わりを告げる。順帝は内モンゴル応昌に逃れて再起を期していたが、1370年にこの地で没し、皇太子のアユルシリダラが後を継いだ。これが北元の昭宗である。奇后は北元の皇太后になったことになる。遼東方面には20万の大軍を擁する元大尉ナガチュの勢力が残存しており、北元は高麗にも圧力を加えた。

やがて北元の昭宗アユルシリダラは明軍に追われてカラコルムに逃れ、1378年にこの地で没した。その後を継いだのは昭宗の弟とも子とも言われるトグス・テムル(北元の天元帝)である。北元が頼みにしていた満州に勢力を有する大尉ナガチュが1387年、明の圧力に抗しきれず投降すると、北元の命運は尽きる。1388年、カラコルムを明軍に襲撃されたトグス・テムルは逃亡する途中、アリクブカの後裔イェスデルに殺害され、北元は滅びた。奇后がいつどこで死去したのかは詳らかではない。

脚注

  1. 武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年、109頁、脚注(1)

登場作品

外部リンク