華中鉄道
華中鉄道株式会社(かちゅうてつどうかぶしきがいしゃ・華中鉄道股□有限公司)とは、日中戦争によって日本軍が占領した中国の鉄道の内、華中地域の運営を行う事になった日本・中華民国維新政府及び南京国民政府の合弁特殊法人である。中支那鉄道・中支鉄道ともいった。
華北地域の鉄道運営を行う事になった華北交通とともに、日本占領期における中国の交通運営・統制を担った。実質的には日本の国策会社であった。
概要
- 本社 中華民国上海市
- 資本金 5000万円(中華民国1000万円、中支那振興2500万円、その他1500万円)
- 目的 華中地域における経済復興・国防対策を目的として、自主的な鉄道・自動車線の早期運営を行うため。
- 設立 1939年(昭和14年)4月
- 業務停止 1945年(昭和20年)8月
華北交通はどちらかといえば南満洲鉄道(満鉄)系の会社でそちらの社員の出向が多かったのに対し、華中鉄道は日本の国有鉄道を運営していた鉄道省系色彩が強かった。それは華中鉄道の発端が鉄道省の技術者を集めた特設部隊である山田部隊が上海近郊の呉淞に派遣され、蒸気機関車の組み立てを行った事によるからであった。そして華中鉄道が設立されると、更に多くの鉄道省関連の人間が中国へ向かう事になった。
等級
華中鉄道には一等車・二等車・三等車の他に、「四等車」という等級車両も存在していた。これは貨車を客車代用として用いたもの、ないしは貨車の構造をそのまま客車に適用した新造車両で、中国人の貧農や季節労働者向けとされていた。居住性は著しく劣るものであった(輸送単価を切り詰める意図を持った2階建車両まで存在した)が、運賃が非常に安いため、そうした層に重宝された。中国人は必要な運賃・料金を払えば一等車に乗車できたが、日本人の四等車への乗車は認められていなかった。
機関車
華中鉄道では国民政府が撤退に際して機関車を徹底的に破壊したため機関車などが不足していた。そのため、日本本土の鉄道から蒸気機関車を狭軌(1067mm)から中国の鉄道軌間である標準軌(1435mm)に改軌工事を施した上で送ることになった。送られた機関車は下記の通りであり、その内9600形機関車は標準軌への改軌工事が容易であったため、最も需要が大きい機関車で251両が中国大陸へ渡った。なお、第二次世界大戦後のこれらの機関車の消息は大半については不明であるが、9600形(KD5形へ改称)の一部はそのままの軌間で海南島で使用、または再度改軌工事(1m軌間へ改軌)が実施されてKD55形となり、1980年代初頭まで昆明からベトナムとの国境付近にある河口に至る昆河線で使用されていたことが確認されている。
一方、新たに製造された機関車としては、南満州鉄道のパシロ形とほぼ同型のKC100形や、朝鮮総督府鉄道のパシシ形があり、パシシ形については、第二次世界大戦後はSL12(勝利12)形として1980年頃まで使用されていた。
客車
元々当地で使用されていた客車や貨車も、機関車同様に破壊されていた車両が多かった為、鉄道省よりスハ32系客車を始め、126両もの車両が改軌工事を施されて供出された。供出された車両は以下のとおりである。
- オシ27730形(3両)
- ナロ20700形(8両)
- ナハ22000形(35両)
- ナハフ24000形(37両)
- オニ26600形(5両)
- スロ33形(9両)
- スハ32形(22両)
- スハフ32形(7両)
この他、南満州鉄道の図面を流用して製造された車両と、1940年より製造された鉄道省の客車の設計がベースの車両が存在した。これらの車両は、第二次世界大戦後も上海や南京を中心に使用されていた。
気動車
気動車は、都市近郊の区間運転用にキハ40000形とキハ42000形が10両ずつ供出された。
優等列車
華中鉄道では戦禍が落ち着くにつれ、華北交通との直通列車など優等列車も走らせるようになった。その代表としては上海~南京間(海南線)に運行された特急列車「天馬」・「飛龍」号があり、1942年(昭和17年)11月当時は同区間311kmを5時間20分、表定時速58.31kmで走破した。