天保の大飢饉

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天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は、江戸時代後期の1833年天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。

寛永享保天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。

概要

主な原因は洪水冷害であった。東北地方陸奥国出羽国)の被害が最も大きく、特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、実高で100万石を超える石高を有していたが、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。

各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、救済者は70万人を超えた。米価急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆打ちこわしが頻発し、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では毎日約150~200人を超える餓死者を出していたという。

一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。たとえば田原藩では、家老渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想を基にした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべき事と説き、給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。また、米沢藩でも、天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。

大飢饉の名残

主に東北から北陸や山陰の日本海側や、近畿から四国などまで広い地域で、「てんぽな」または「てんぽ」という形容動詞形容詞が用いられる。大変な、とんでもない、とてつもない、途方もないなどの広い意味を表す。天保の飢饉に由来するともいわれ、現代まで言葉に残る大飢饉の名残と言える。また稀に更に強調した意味で「天明天保な」とも使われる。

鳥取藩では、「申年がしん」として、この飢饉の悲惨さが伝説となって近年まで語り継がれていた。また、飢饉の犠牲者を慰霊するための叢塚(くさむらづか)が、東北地方を中心に現在も残っている。

関連項目